村田徳次郎むらた とくじろう

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    村田 徳次郎(むらた とくじろう、1899年(明治32年)10月15日 - 1973年(昭和48年)12月17日)は、昭和時代に活躍した彫刻家である。
    出身は、大阪市南区。心斎橋筋の半エリ専門店「ゑ里徳」の長男として生れた。父は村田徳松、母はハマである。はじめ家業をつぐために私立大倉商業学校へ入学した。しかし、大正3年3月に同校2年修了で中退した。その後4月に京都市立美術工芸学校、本科4年制の準備過程予科2年に編入、翌年4月に同校本科(図案科)へ進学した。大正8年4月に同校を卒業した。
    卒業の年に徴兵適齢に達したため、同年12月に一年志願兵として輜重第四大隊へ入営した。翌年の12月に現役満期除隊した。同年末、12月30日に父である徳松が死去したため、2年間ほど家業に従事した。大正13年4月より義兄に家業をゆずり日本美術院に所属した。そのころから彫刻研究をはじめた。大正15年の第13回院展に「小児像」が初入選し、それからは毎回入選した。昭和2年に東京府北豊島郡にてアトリエを新築し、住居を移した。12月5日に日本美術院研究会員となった。昭和5年5月には、日本美術院院友に推挙された。同7年に第19回院展に出品をした「女座像」等、他2点で日本美術院賞を受賞した。同13年に第25回院展にて「女立像」、「肘つける少女」、「男半伽像」を出品した。同人に推挙された。その後の昭和36年2月、日本美術院彫塑部解散にいたるまで、その中堅作家として、とりわけ石井鶴三を尊敬し、私淑した。また、同門の喜多武四郎、松原松造らと共に、学問を深く究めた。厳しい製作態度をもって、対象の外形よりも内面性追究を重視した作品を発表し続けた。戦後は、昭和23年2月末に東京美術学校講師を任せられ、昭和40年3月31日に定年で東京芸大美術学部基礎実技、工芸科・建築科の塑造を担当した(昭和34年4月以来)。退官するまでの間、後進の指導に尽力した。昭和34年5月には、同士相寄り粲々会(第1回展を日本橋三越で開催)を結成し、昭和47年10月、第12回展開催の晩年にいたるまで、中心的存在として活躍した。会員の分担により、読売ランドに仏教祖師像(村田は「親鸞聖人像」を担当)を建立するべく製作中であったが、完成間近の運びとなり、昭和40年10月開催の第5回展(読売新聞社主催・新宿京王百貨店)をその成果披露の場とした。また、昭和47年10月に開催された第12回展「巨人軍を彫る」(読売新聞社主催・東京読売巨人軍後援)を渋谷東急百貨店にて開催した。「オーナー正力氏像」、「渡辺投手」、「長島選手」を出品し、「彫刻と一般大衆との結びつき」を計るなどして、会員相互の研究と共に一種の彫刻普及運動を積極的に行った。没後には、昭和49年5月の第13回白呂会展(旧称粲々会・銀座ゆうきや画廊)にて、「腰かけた女(絶作)」、「足を組む」、等の6点が遺作として出品された。

    村田徳次郎の代表的な作品

    • 「肘つける少女」
    • 「足を組む」

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