橋本雅邦はしもと がほう

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橋本雅邦の買取

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橋本雅邦 橋本雅邦(はしもと がほう 天保6年7月27日(1835年8月21日)) は幕末から明治時代に活躍した狩野派の絵師、日本画家。

1835年、江戸木挽町(東京都中央区)の狩野家の邸内に生まれる。父は狩野養信門下の狩野派絵師・橋本養邦で武蔵国(埼玉県)川越藩の御用絵師だった。

幼少時より父から絵を学び、12歳で養信に入門。同門の7歳年上の狩野芳崖とは生涯を通じて親交があった。入門してほどなく養信が没したため、子の勝川院雅信の門下となる。芳崖とともに勝川院門下の四天王と呼ばれ、とくに二人は「勝川院の二神足」「勝川院の龍虎」と称された。

26歳で雅邦の名をもらって独立し結婚するが、狩野派絵画の需要は減っていた。1871年に出仕していた川越藩が廃止されると海軍兵学校で製図の仕事に就き、絵師としての活動はあまりできなくなる。

1877年、山口県に帰郷していた狩野芳崖が上京し、ふたたび画業の研鑽に励むようになる。

1886年、海軍兵学校を辞し、岡倉天心、フェノロサらの東京美術学校設立に携わる。フェノロサと天心は、西洋美術を吸収した新たな伝統主義美術の創出を目指していた。東京美術学校は、官立の美術学校としては工部美術学校に次ぐ2番目の学校だったが、内容は正反対で、伝統美術のみが教えられ、日本画はその中心だった。教官は狩野派、円山四条派、大和絵に力点が置かれ、南画、南北合派、浮世絵は排除された。

1888年、美術学校開校を目前に芳崖が亡くなり、雅邦は絶筆の『悲母観音』を仕上げる。

1889年、東京美術学校絵画科の主任に就任。

1890年、第3回内国勧業博覧会にて、狩野派の絵画様式に西洋的な表現を加えた『白雲紅樹』が妙技一等賞を受賞する。また同年、帝室技芸員となる。

1898年、岡倉天心を誹謗する怪文書の流布をきっかけに、天心と天心派の教官が東京美術学校を辞職・懲戒免職となる事件が起きる。雅邦も横山大観、菱田春草らとともに学校を去り、天心一派が設立した日本美術院の創立に参加した。

1900年、パリ万国博覧会に出品した『龍虎図』が銀賞を受賞。

1908年、死去。享年72歳。

橋本雅邦の代表的な作品

  • 『白雲紅樹』
  • 『竜虎図』

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