中川浄益なかがわ じょうえき

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中川浄益の買取

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中川浄益 中川 浄益(なかがわ じょうえき)は千家十職の一つ、金物師(かなものし)の中川家当主が代々襲名する名称。元々は越後国で甲冑・鎧を作っていたが、茶道具を初めて手掛けた初代・中川與十郎が紹益を名乗り、二代目浄益以降の当主が浄益を継ぐ。
十一代中川浄益が2008(平成20)年に逝去した後、空席が続いている。

十一代は十代の長男として生まれ、京都市立第二工業高校(現在の京都市立伏見工業高等学校)金属工芸科卒業。十代没後、1940年に十一代浄益を継いだ。
中川家は錺師(かざりし)とも言われ、金工の精巧な茶道具を得意とし、優れた金工の技術を継承してきた。その作品は鉄を鍛造して制作する槌物(うちもの)と鋳造による鋳物(いもの)が主である。茶道具において金物の範囲は広く、水差し、蓋置、銀瓶、花活け、灰匙、香呂、火鉢、風炉など、その技術は多様である。


初代:紹益(紹高、1559年 - 1622年)越後出身。元は武具を製作するが、千利休の依頼・指導により薬鑵を作ったのを機に茶道具作りを始めた。代表作「利休薬鑵」

二代:浄益(重高、1593年 - 1670年)寛永年間に千家出入の職方となる。表千家四代江岑宗左より浄益に改めるよう申しつけがあり、以降は代々「浄益」を名乗る。妻は金森重近(宗和)の娘。

三代:浄益(重房・長十郎のち太兵衛、1646年 - 1718年)困難な技術であった銅・錫・鉛の合金である砂張(さはり)の製法を発見。多くの名品を残しており、歴代の中でも鋳物の名人として知られる。

四代:浄益(重忠のち友寿・源吉、1658年 - 1761年)3人の息子達と共に家業の隆盛に励む。

中川源介友忠(1685年-1759年)代表作「覚々斎好渦唐金水指」。4代が長命であったため、跡を継げないまま逝去した。

五代:浄益(頼重・源吉、吉右衛門、1724年 - 1791年)四代の三男。この代から代々「吉右衛門」を名のる。表千家八代・啐啄斎に重用される。晩年に天明の大火に遭い、過去帳1冊以外のすべての家伝・家財を消失。

六代:浄益(頼方、1766年 - 1833年)五代の息子。啐啄斎の機嫌を損ね、一時表千家出入りを禁じられる。了々斎の代になって許される。歴代中随一の茶人であり、「宗清」の茶名を持っていた。

七代:浄益(頼実、1796年 - 1859年)「砂張打物の名人」「いがみ浄益」といわれ、中川家の中興の人物といわれる。妻は飛来一閑三女・九満。

八代:浄益(幾三郎、1830年 - 1877年)七代の婿養子。三井家手代・麻田佐左衛門の息子、妻は七代の娘・戸代。幕末~明治の転換期に先を見通し、京都の博覧会の開催に尽力。

九代:浄益(益之助・紹芳、1849年 - 1911年)八代の息子。茶道衰退期に家督を相続。父方の縁により三井家などから援助を受けるが、家業の建て直しがうまくいかず。職人としては一流であったが、伝統工芸に理解のない時代だったため世間からは認められなかった。

十代:浄益(淳三郎・紹心、1880年 - 1940年)九代の息子。早くから大阪の道具商のもとに修行に出される。父の死により家督を相続。第一次世界大戦勃発による軍需景気にのり負債を完済、中川家再建の基盤を作る。代表作「青金寿老」「布袋像2体」(以上三井家蔵)「祇園祭岩戸山柱金具(2柱分)」。

十一代(当代):浄益(紹真、1920年 - 2008年)

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