北大路魯山人きたおおじ ろさんじん

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北大路魯山人の買取

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北大路魯山人は、安定して高い人気があり、そのため古美術永澤では北大路魯山人の作品を特に高く評価し買い取りしています。
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北大路魯山人の人気の作品


北大路魯山人の作品の陶磁器は人気が高く、コレクターの方が多くいらっしゃいます。
磁器に加えて織部・志野・黄瀬戸などの美濃焼、京焼焼など幅広いジャンルで人気があります。
特に茶碗や壷、皿などをお持ちでしたらぜひご相談ください。
その他にも書や、絵画、篆刻など、魯山人の作品は高く評価しています。

北大路魯山人の査定のポイント


メールやLINEで画像をお送りいただければ、大体の相場をお伝えいたします。
買取については、経年の退色や、カビなどからくるシミ・しわなどを実物の状態を拝見して査定額をお出しいたします。

北大路魯山人の代表的な作品

  • 「常用漢字三體習字帖」
  • 「魯山人作瓷印譜磁印鈕影」
  • 「志野若草文四方皿」
  • 「桃山風椀」
  • 「椿鉢」

北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん、ろざんじん・ろさんにん とも、1883年(明治16年)3月23日 – 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)。
晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家など様々な芸術分野で才能を開花させた。

京都市北区上賀茂北大路町の貧しい社家に房次郎(魯山人)は生まれる。
士族の家柄だったものの版籍奉還により生活は厳しく、それまで保証されてきた俸禄制と世襲制が明治4年に廃止されため世間は混乱期にあった。
そんな中、父・清操(きよあや)は職を求めて東京と京都を行き交う生活をしていたが、房次郎が生まれる4ヶ月前に自殺する。母も失踪したため親戚の家に引き取られるが、その後親戚宅を転々とする。

房次郎3歳の春、養姉に連れられて上賀茂神社の東側に拡がる神宮寺山を散歩をしている時、「真っ赤な躑躅(つつじ)の咲き競う光景」を目にする。その時、激しい色彩の渦を見て「美の究極」を感じ、自分は美とともに生きようと決心したという。その光景は永遠の記憶として残ることとなった。

1889年(明治22年)6月22日、6歳の頃、それまで他家を転々としていたが、竹屋町の木版師 福田武造・フサ夫人の養子となり、福田房次郎となる。以後33歳までの約27年間福田姓を名乗る。福田家では自ら炊事をかってでており、炊事の中で房次郎は味覚と料理の基本を学んでいく。

10歳の時に梅屋尋常小学校(現在の御所南小、新町小)を卒業。春には京都、烏丸二条の千坂和薬屋(現在のわやくや千坂漢方薬局)に住み込みで丁稚奉公に出される。
ある日奉公先の使い走りの最中、御池油小路西入ル森ノ木町にある仕出し料理屋「亀政」の行燈看板の絵を見て心を奪われる。そこには紐でいわがれた亀の絵が達者な一筆描きで描がれ、その紐の先がもつれたようにひら仮名になり、「まさ」と読めた。房次郎はその当意即妙な着想と巧みな筆致に魅せられ、その方角に使いに出される度に、行燈をのぞくのを楽しみにしていた。
その絵を描いたのは亀政の主人の長男で、若くして頭角を現してた竹内棲鳳(後の栖鳳)であった。のちに京都画壇総帥として帝展文展に君臨することになる竹内栖鳳に会ったことで、絵に対する好奇心と情熱は一気に高められた。

1896年1月奉公を辞め、養父母に画学校の進学を懇願するが許されず断念。養父の木版の手伝い始め扁額や篆刻を研鑽する。
他方、当時流行していた一字書の書道コンクールに応募し受賞。以後次々と受賞し、その賞金を書画の勉強にあて、我流で絵を描き始める。
16歳になると西洋看板描きと活躍し、これが評判となり自立して暮らせるようになる。
20歳の時、縫箔屋の主人が房次郎の従兄と名乗って現れる。彼により母の所在を知ることになり、東京に会いに行ったものの受け入れられなかった。そのまま東京に残り書家になることを志し、日下部鳴鶴を訪ねる。

1904年(明治37年)、第36回日本美術展覧会で隷書「千字文」が一等賞を受賞。宮内大臣田中光顕子爵買い上げとなる。21歳での受賞は前代未聞の快挙であった。
この展覧会では福田海砂(かいさ)と号した(この号は翌年までの2年間のみ使用)。その後住み込みで版下書きの仕事を始める。この頃実母登女との関係も良くなっていく。
1905年(明治38年)、岡本太郎の祖父・書家の岡本可亭の内弟子となる。そこで、福田可逸(かいつ)の号を授かる。やがて帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)に文書掛として出向するようになる。
1907年(明治40年)可亭の門から独立し、中橋和泉町に転居。福田鴨亭(おうてい)を号す。
翌年2月17日、安見タミと結婚。その年の夏、長男桜一が生まれる。

1910年(明治43年)、実母登女を伴い朝鮮京城に赴く。母を京城(現在のソウル)の兄のところへ送り届け朝鮮内を旅し3ヶ月後、朝鮮総督府京龍印刷局に書記として勤め3年ほど生活する。余暇に書道、篆刻を学ぶ。
1911年(明治44年)、日本に残した妻に第二子が誕生。上海で呉昌碩を訪ねる。

1912年(明治45年)、夏に帰国。書道教室を開く。
1913年(大正2年)、30歳の頃、長浜の紙文具素封家・商河路豊吉に招かれ、柴田源七の食客として書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供される。河路家の「淡海老鋪」、木之本冨田酒造の「七本鎗」などの看板を制作。また、鯖江の桑原呉服店の「呉服」の看板を彫る。ここで魯山人は福田大観(たいかん)の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残している。
柴田家には敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れていたため、食客となれたのは大きな喜びであった。栖鳳が訪れた際に款印を彫らせてもらうよう願い出て製作。栖鳳はその款印を気に入り、門下の土田麦僊らに紹介を得ることになる。それ以降日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくこととなる。

1915年(大正4年)、タミと離婚。福田家の家督を長男・桜一に譲り、自身は北大路姓に復帰。
1916年(大正5年)、北大路魯卿(ろけい)と名乗る。併用して北大路魯山人の号を使いはじめる(魯卿と数年併用している)。
その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々とする中で、地域の文化に触れ、食器と美食に対する見識を深めていった。
また実業家・内貴清兵衛と彼の別荘である松ヶ崎山荘で交流も深めていき料理に目覚めていった。

1917年(大正6年)、便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深める。
中村竹四郎とは後に、古美術店の大雅堂芸術店を開く。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理盛り付け振舞うようになる。
1921年(大正10年)、会員制食堂「美食倶楽部」を発足。自ら調理し料理を振舞う一方、使用する食器も創作した。
政財界の大物が魯山人の料理を礼賛し、会員は200名にも膨れ上がったという。
1925年(大正14年)3月20日には東京・永田町に会員制料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに立ち上げる。
中村が社長、魯山人が顧問となった。会員には、貴族院議長の徳川家達や男爵の藤田平太郎、侯爵の細川護立、電力王の松永安左エ門、作家の志賀直哉や画家の鏑木清方ら、各界の名士が名を連ねた。
1927年(昭和2年)には、鎌倉山崎に魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立。星岡茶寮で使用する器の作陶を本格的に開始。加賀・須田菁華窯や京都・宮永東山から有名な職人を引き抜き、その中には荒川豊蔵もいた。
1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。
魯山人の横暴さや経営の放漫さが原因となり、1936年(昭和11年)、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放される。同茶寮は1945年(昭和20年)の空襲により焼失した。

茶寮追放後は、陶芸家として活躍する。
戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、1946年(昭和21年)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。
また1951年(昭和26年)に結婚したイサム・ノグチ・山口淑子夫妻を一時、星岡窯に寄寓させた。
1954年(昭和29年)ロックフェラー財団の招聘で渡米し各地で展覧会と講演会が開催された。その後ヨーロッパに渡り、パブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。
1955年(昭和30年)72歳の頃、織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。
1959年(昭和34年)肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。享年76歳。

1998年(平成10年)、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失。
北鎌倉にあった魯山人旧居は昭和40年に茨城県笠間市に移築し、笠間日動美術館別館 春風萬里荘として現在も公開されている。

北大路魯山人

北大路魯山人

古美術永澤より北大路魯山人の買取

北大路魯山人の陶器や書画は本物であれば高額買取が期待できます。
北大路魯山人は食器や器が人気がありますが、古美術永澤では陶磁器だけでなく、肉筆や書の高額買取の実績も数多くあります。
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すでに鑑定を取得されている場合はかならず一緒にお見せいただけますようお願いいたします。
状態などを拝見してできる限りの高額で買い取りさせていただきます。

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