有元利夫ありもと としお

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有元利夫の買取

有元利夫の作品を高く評価しております。
もし作品がお手元にございましたらぜひご相談ください。

有元利夫の人気の作品


有元利夫の絵には日本の仏教美術や「平家納経」、中世ヨーロッパのフレスコ画などの影響が見られ、風化したような古びた感じと静謐であたたかみのある画風が特徴です。

描かれているのは女性が空中にうかぶような非現実的な空間で、タブロー以外ではエッチング、リトグラフ、彫像も残しています。

アトリエの壁に「雅、放胆、枯淡、稚拙、鈍、省略、不整美、無名色、無造作」という言葉がはられていたといいますが、まさに有元の世界をぴったりと言い表しています。

有元利夫は38歳という若さで他界したこともあり、作品の数は多くありません。そのためどの年代の作品であっても作風に変化はなく、非常に人気があります。

有元利夫の作品の査定のポイント


中世の宗教画のように見える一方、謎めいた印象も与える有元利夫の作品は生前から高く評価されていましたが、死後もその人気は衰えていません。

絵画は作品の状態によって査定額が変わります。シミやヤケ・ヒビなどのない状態で保存されていれば、より高額で査定されます。
状態が悪く修復費用が必要となる場合は、査定額が下がります。

有元利夫の生涯


高校で中林忠良と出会い美術の道へ


1946年、父吉民の実家のある岡山県津山市に疎開中に生まれる。男ばかり4人兄弟の末っ子だった。生家は東京の日暮里や谷中などにで約1500軒の家屋を持ち、貸家業を営んでいた。しかし、空襲で焼失したため、文具店を始める。有元は幼少期から、当時としてはぜいたくな絵の具や筆などの画材道具に囲まれ絵に興味を抱く。
1953年台東区立谷中小学校に入学。小学3年生のときに、兄の教科書に載っていたゴッホの『糸杉』『星月夜』の絵を見てゴッホが大好きになり、油彩を始める。

団塊の世代のはじまりの年代で競争意識は激しく、有元も周囲と同じように受験するが、開成中学の受験に失敗する。このときの挫折感が大きく、のちに「中学時代の3年間、13歳から15歳までの長い時間は、今いくら振り返って目を凝らしてみても、くっきりと浮かび上がってくることは何もない」と振り返っている。東京芸大の隣にある台東区立上野中学から駒込高等学校へ進学。そこへ美術教師として赴任してきた版画家中林忠良との出会いが、有元の画家への道を決定づける。そのときすでに高校3年生になっていた。東京芸術大学受験のために中林が学校とは別に開いた教室でデッサンをみてもらったが、数週間で石こうデッサンを1枚仕上げるというペースで不合格になる。

中林が油絵科をすすめたにもかかわらず、有元が受験したのはデザイン科だった。その理由について、以下のように語っている。
「僕が受験したころは、日宣美の全盛期、デザイナーという職業がにわかに脚光を浴びるようになっていました。デザイナーになれば食いはぐれることはあるまい。食う手立てをしっかり掴んでおいて、かたわら好きな油絵を描いていこう、というのが漠然とした僕の人生計画だったようです。」

浪人しているときに受験用の「いいデッサン」に疑問を抱き、予備校や研究所をやめる。コンセプチュアル・アートに凝り、自宅近くのマネキン工場のスペースを借りて制作に励む。奈良への旅行で仏像・仏画に触れ、「古典を見てるここちよさ」を感じた。

東京芸術大学とヨーロッパ旅行


1969年、4浪の後東京芸術大学美術学部デザイン科入学。日本画科や彫刻科、音校にも「モグリ」で入り、リコーダの指導を受けてヴィヴァルディなどのバロック音楽に親しむ。また、在学中に後の妻である渡辺容子と出会う。

在学中に渡欧。イタリアのフレスコ画に強く感銘を受け、日本の仏画に共通点を見出し、岩絵具を用いることを決心する。卒業制作ではピエロ・デッラ・フランチェスカらの作品を引用しながらも、独自のスタイルを探る「私のとってのピエロ・デラ・フランチェスカ」10点連作を出品。大学買い上げとなる。

電通を退社し画業に専念


卒業後は、デザイナーとして電通に勤める。菓子箱や雑誌広告などを手がける一方で、個展の開催や展覧会への出品などを行う。このころ、画面に登場する人物は中性的なスカート姿の女性というスタイルが確立される。どうしてこのような人物像をモチーフに選んだかということについて、有元は以下のように語っている。
「僕の場合あくまでもフォルムから入った。僕が欲しいフォルムを作り出してくれる人間がたまたま女性だということです。スカートをはいていると、フォルムがまとまりやすいというか、ひとつのかたまりになりやすい。そのかたまりをかたまりとして扱いやすいのです。組んでいる脚はその通り描かなくてはならないけれど、スカートに覆われているとその中は仕草も自由です。その辺の自由が得られるということもある。だから、描いている時も、これ女だということはまるで意識しません。」

1975年、みゆき画廊での初の個展が「芸術新潮」の編集長だった山崎省三の目にとまり、「芸術新潮」に巻頭カラーで紹介される。

1976年、画業に専念するため退社。その直前に開いた個展は「バロック音楽によせて」と題し、『オラトリオ』『フーガ』など21点を出品し、絵で音楽を表現した。1978年には銅版画集『7つの音楽』を制作し、銅版画に曲をつける試みをした。

1978年、大阪フォルム画廊東京店での個展で手元に残った『花降る日』を出品。安井賞史上初めての特別賞を受賞する。油絵だけでなく版画や彫刻にも取り組み、拾った石などを使った絵具づくりにも精力を傾けた。

1980年の彌生画廊での個展に出した「室内楽」で第24回安井賞を受賞する。彌生画廊のオーナーである小川貞夫は有元を高く評価し、有元の作品を買取にした。

1985年2月24日に肝臓がんのため死去。享年38歳。墓は少年のころ遊び場だった長久院墓地にある。

年表


1946(昭和21)年 岡山県津山市に生まれる
1953(昭和28)年 台東区立谷中小学校に入学
1954(昭和29)年 ゴッホに興味を持ち、油絵の道具を親にねだる
1962(昭和37)年 駒込高等学校に入学
1964(昭和39)年 美術の講師だった中林忠良と出会う
1969(昭和44)年 東京藝術大学美術学部デザイン科入学
         妻となる渡辺容子と出会う
1971(昭和46)年 ヨーロッパ旅行で見たフレスコ画に衝撃を受ける
1972(昭和47)年 東京藝術大学美術学部デザイン科卒業
         渡辺容子と結婚
1973(昭和48)年 電通に就職
1975(昭和50)年 はじめて個展を開く
1976(昭和51)年 電通を退社
         東京藝術大学非常勤講師を務める
1978(昭和53)年 安井賞特別賞受賞
1980(昭和55)年 「RONDO」を作曲。CDを作成する
1981(昭和56)年 安井賞受賞
1982(昭和57)年 唐津の陶芸家、中里隆の家に滞在して人形などを制作
1983(昭和58)年 長男が誕生
1984(昭和59)年 入退院を繰り返す
1985(昭和60)年 2月24日、肝臓がんで死去

有元利夫の代表的な作品

  • 「星の運行」1974年
  • 「こもりく」1975年
  • 「花降る日」1977年
  • 「望郷」1978年
  • 「春」1979年
  • 「厳格なカノン」1980年
  • 「室内楽」1981年(国立近代美術館)
  • 「出現」1984年

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