梅原龍三郎うめはら りゅうざぶろう

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梅原龍三郎の買取

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梅原龍三郎

梅原龍三郎の人気の作品


梅原龍三郎は、フランスでルノワールなどに学んだ技法に、桃山美術や大津絵など日本の伝統的な絵画の装飾的な美しさを加え、材料の面でも岩絵具や和紙、金や銀泥などを用いて東西の美術を統合した画風が特徴です。

裸婦図や、富士山、浅間山などの名山の連作、中国や外国の風景画、薔薇の絵などが人気です。

梅原龍三郎の作品の査定のポイント


絵画は保存状態がとても重要です。シミ、カビ、ヤケ、ひび割れなどがないほうが高価買取になります。一般的にはサイズは大きい方が高価になります。

梅原龍三郎の生涯


修業時代とフランス留学


梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう)は 1888年(明治21年)3月9日 、京都市下京区芦刈山町にある悉皆屋(染物問屋)の家に生まれた。梅原は生家について「呉服物の問屋から集る白生地に図案、染色、刺繍などをそれぞれの職先に分配して出来上がつたものを所謂得意先きに届ける迄の仕事です」「毎日図案だの模様を描きに来る絵師の傍に遊んでいるうちに、光琳といへば、あるスタイルの梅だの松だのゝ形容詞として知るやうになりました」と語っている。

京都府立第二中学3年のときに病気のため休学することになり、画塾に通い始める。伊藤快彦の家塾、鍾美会のあとに浅井忠の聖護院洋画研究所に学ぶ。初期の作品には浅井の影響が見てとれる。ここで安井曽太郎に出会う。

1908年、20歳のときにフランスに留学。フランスに着いた翌日に初めてルノワールの絵を見た感動を次のように残している。「此の画こそ、私が求めて居た、夢見て居た、そして自分の成したい画である。かゝる絵を見る事が出来てこそかく遠く海を越えてこゝにやってきた価値があった」

フランスでは京都での師、鹿子木孟郎が学んだアカデミー・ジュリアンに通う。夏から秋にかけて、高村光太郎のアトリエでともに制作する。

1909年2月、南仏カーニュ・シュル・メールに住んでいたルノアールを訪ね、以後指導を受ける。パリに戻ったあとはルノワールにすすめられたアカデミー・ランソンに入る。1908年から1913年にかけての滞仏時代に描かれた『少女アニーン』『ボンネットの婦人』からは、ルノワールから貪欲に学び、多くを吸収したことがうかがえる。

1911年、友人の紹介でピカソと知り合い、アトリエを訪問。スペイン旅行ではプラド美術館でティツィアーノの作品を模写している。この年描いた『自画像』にはエル・グレコの影響が見られる。

帰国後の苦闘と2回目の滞欧


1913年、5年の遊学を終えて帰国。この年に描かれた『黄金の首飾り』はヨーロッパ滞在の成果として知られている。

10月に「梅原良三郎油絵展覧会」を開催(龍三郎は生後間もなく良三郎と改名し、1914年に龍三郎に戻した)。110点を発表したが、売れたのは1点のみだった。

1914年、二科会の創立に参加して会員となり、洋画家亀岡崇の妹艶子と結婚。だがヨーロッパと日本の光の違いやモデル、風景の違いなどに戸惑い、帰国後数年はあまり制作がはかどらなかった。このころ京都のお寺を巡って襖絵などの美術品を見て回る。

1917年、二科展に『熱海風景』を出品したあと、二科会から退く。パリ滞在中の絵の明るい輝くような色調が、次第に重いものに変わりつつあった。模索を続けている梅原のもとに、帰国後も文通を続けていたルノワールの訃報が届く。梅原は御殿山の自宅を売ってヨーロッパへ旅立ち、カーニュへ遺族を見舞った。パリなどを訪ねて1年たらずで帰国。鎌倉へ仮住まいした後、1922年に父の最後の仕送りで東京・麻布に家を建てる。

裸婦と北京の時代


この年、日本美術院洋に画部を脱退した小杉未醒らと春陽会を結成した。梅原は春陽会に鎌倉で知り合った岸田劉生を誘ったが、岸田がほかのメンバーと衝突したため、責任を取って退会した。その直後に土田麦僊に誘われて国画創作協会の洋画部に参加する。

このころから、梅原は日本各地に出かけてそこで制作に取り組むようになる。1923年、小林和作や中川一政と日光中禅寺にでかけたのをきっかけに、3年間秋になると中禅寺に通った。1924年には伊豆に離れ屋を借り、以後しばしばこの地を訪れた。1925年は江之浦、1926年は牛臥、1928年は興津に滞在している。日本の自然を南画に通ずる量感の大きなとらえ方とこまやかな色彩で描いている。

1930年代になると『裸婦鏡』(1930年)、『裸婦首飾り』(1934年)、『竹窓裸婦』(1937年)など裸婦をテーマにした作品を次々に制作する。滞欧時代の裸婦作品に比べタッチが力強くなり、筆太の線で生命感にあふれた肉体を描いた。

こうした裸婦図の代表作が『裸婦扇』(1938年)である。寝椅子の上にあおむけに寝た裸婦の背景に扇面貼り交ぜ屏風がおかれている図で、絵が描けなかったころに京都で桃山絵画を見て回った経験が生かされている。




1934年から1940年にかけては繰り返し鹿児島を訪れ、桜島や霧島を描き、1939年から1943年まで毎年のように北京に出かけた。広い空のもとに立ち並ぶ明、清の建物や華麗な京劇などが梅原をひきつけた。『長安街』『紫禁城』(1940年)は建物や甍の朱と木々の緑の対比が鮮やかである。『雲中天壇』(1939年)では、天を祭る儀式を行った祈念殿が生きもののようにとらえられている。『北京秋天』(1942年)は北京時代を代表する名作で、秋の澄んだ空が緑から青への深みのあるグラデーションで描かれている。

第二次世界大戦の戦火が激しくなって中国に行かれなくなると、伊豆に疎開して富士山をモチーフに選ぶ。戦後に軽井沢に別荘を持つと、浅間山がこれに加わった。『噴煙』(1953年)は浅間山をテーマにした代表作で、紙に岩彩で描かれ、空に舞い上がる噴煙が装飾的な美しさを与えている。

役職を辞して海外での制作に励んだ晩年


1937年に芸術院会員、1944年に帝室技芸員に就任し、1952年には文化勲章を受章する。安井曾太郎と「日本洋画壇の双璧」とうたわれるようになるが、梅原は何にも拘束されない環境を好んだ。「ヨーロッパにゆくと、わずらはしさがない。心置きなく制作に専念できる」といい、1957年に日本芸術院会員から退くと、もっぱらハワイやフランスなどに長期滞在して制作するようになった。

1973年、フランス芸術文化勲章コマンドール章を受章。

1986年、急性肺炎のため97歳で死去。

梅原龍三郎の代表的な作品

  • 『横臥裸婦』1908年(愛知県美術館蔵)
  • 『黄金の首飾り』1913年(東京国立近代美術館)
  • 『立裸婦』1915年(佐倉市立美術館蔵)
  • 『裸婦鏡』1930年(メナード美術館)
  • 『竹窓裸婦』1937年(大原美術館) 『裸婦扇』1938年(大原美術館)
  • 『雲中天壇』1939年(京都国立近代美術館蔵)
  • 『紫禁城』1940年(大原美術館蔵)
  • 『薔薇図』1940年(東京国立近代美術館)
  • 『北京秋天』1942年(東京国立近代美術館蔵)
  • 『霧島(栄ノ尾)』1938年(西宮市大谷記念美術館蔵)
  • 『姉妹併座図』1942年(堀美術館蔵)
  • 『噴煙』1953年(東京国立近代美術館)

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