「六古窯」1000年続く日本の美 今も愛される六古窯の歴史と魅力

陶磁器山田常山常滑焼辻清明金重陶陽 2024.02.23

六古窯(ろっこよう)は、日本に古くからあるやきものの中でも、中世から現在まで生産が続く6つの窯(瀬戸、常滑、越前、信楽、丹波、備前)の総称です。
1948年(昭和23年)頃、陶芸家で古陶磁研究科の小山冨士夫により命名され、2017年(平成29年)に日本遺産に認定されました。
中世時代の日本には80か所以上の窯があり、東海地方にはそのうち30近い窯が集中していました。しかしそれらは次第に途絶えていき、当時操業していた窯は六古窯を残すのみとなったのです。
今回は、日本古来より続く六古窯の魅力と豊かな歴史について、ご紹介していきます。

瀬戸焼

瀬戸焼

    • 分類:陶器、磁器
    • 産地:愛知県瀬戸市
    • 誕生:鎌倉時代初期~

せともののお茶碗、せとものの花瓶といった言い回しがありますが、「せともの」とは瀬戸焼(せとやき)が由来となった言葉です。
瀬戸焼は愛知県瀬戸市で製造される陶磁器で、六古窯の中でもっとも古くから釉薬を使ってきました。また、陶器だけでなく染付磁器を作ってきたことも特徴です。
瀬戸焼は鎌倉時代に産声を上げて以来、およそ800年の間、一度も途切れることなく製造が続けられています。

陶磁器の代名詞になった「せともの」の歴史

古墳時代、愛知県の丘陵地には猿投窯(さなげよう)という、埴輪や須恵器を焼くための窯が存在していました。のちにこの周辺地域で猿投窯の流れをくむ窯が開窯し、そのひとつが瀬戸焼のはじまりであるとされています。
鎌倉時代、他地域で作られていなかった施釉陶器を産出したことで瀬戸焼の名は高まり、高級品として扱われるようになりました。
室町時代に入ると生産拠点は次第に美濃へと移り、庶民にも手の届く日用雑器も作られるようになっていきます。この頃までに作られたものが「古瀬戸」と呼ばれるものです。
安土桃山時代には、茶の湯の流行とともに黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部などの茶器が多く焼かれるようになりました。
江戸時代に入ると、肥前有田を中心に作られた有田焼(伊万里焼)に市場を奪われ、一時は衰退しますが、有田の磁器製法を導入したことで息を吹き返します。
これ以降、瀬戸焼では、陶器製品を「本業焼」、磁器製品を「新製焼」と呼び分けるようになりました。すでに浸透していた施釉技法に加えて呉須の染付技術も取り入れられ、明治時代には輸出用の美麗な陶磁器が多く作られました。
陶磁器の代名詞として「せともの」が使われることからも分かるように、瀬戸は日本屈指の窯業地として発展していったのです。

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瀬戸焼の豊富なバリエーションと特徴

瀬戸焼は六古窯の中で、もっとも古くから施釉陶磁器を焼いてきた窯です。
雑木などの灰を主原料としてバリエーション豊かな色合いを見せる「灰釉(かいゆう)」、鉄を着色剤として黒褐色を呈する「鉄釉」、灰釉内の微量の鉄分が酸化して黄色に変わる「黄釉(おうゆう)」などが使用されます。
また、生乾き段階の素地に装飾を施す点も特徴です。型押しの「印花(いんか)」、胎土と同じ粘土で作った文様を素地に貼りつける「貼花文(ちょうかもん)」、素地に文様を刻む「画花(かっか)」「刻文(こくもん)」などの技法があります。
さらに、素地が中国の白磁のようになめらかで美しいことも特徴です。
瀬戸の丘陵地帯で採取される木節粘土と蛙目粘土を用いて作られます。これらの土は耐火度が高く、可塑性と柔軟性に富み、鉄分がほとんど含まれていません。この土の特性を活かすことで、繊細な成形が可能になり、白色のやきものを作ることができるのです。
陶器だけでなく、美しい白色の素地に藍色の呉須で染付した磁器は「瀬戸染付」とも呼ばれ、日常使いの器としてだけでなく、装飾用の置物としても人気があります。

常滑焼

常滑焼 山田常山 三代 朱泥

  • 分類:炻器
  • 産地:愛知県常滑市
  • 誕生:平安時代末期~

伊勢湾に面する知多半島の西は丘陵地が広がり、窯を築くのに適したなだらかな斜面が多く、まさに窯業地としてうってつけでした。さらにこの地で採取できる土には鉄分が多く含まれており、低い温度でも焼き締まる性質もあったことから、甕(かめ)や壺などの大きなものを焼くのにぴったりだったのです。この風土と環境を活かして今日まで続いてきた「六古窯の父」それが常滑焼(とこなめやき)です。

「六古窯の父」常滑焼の歴史

常滑焼といえば朱色の急須や、小判を抱いた招き猫のイメージが定着していますが、これらは比較的歴史が浅く、それ以前から常滑では時代に合わせたさまざまなやきものを作ってきました。
常滑焼は平安時代後期頃に、猿投窯の流れをくんで開窯します。
日用の器のほかに、大甕、広口壺、三筋文壺など、それまでの伝統になかったものを主に焼くようになり、やきものの主要産地となっていきます。
当時稼働していた常滑の窯は1,000とも数千ともいわれていますが、正確な数は定かではありません。
製造されたやきものの多くは海路で東北から九州まで全国各地に運ばれ、酒や油の貯蔵、経典の安置などの用途で使われていたことが分かっています。
遠く離れた岩手県・奥州平泉の遺跡群でも大量に見つかっており、常滑のやきものの供給がいかに広範に及んでいたかが伺えます。
江戸時代には鮮やかな朱色が美しい朱泥急須(しゅでいきゅうす)の創出に成功し「常滑焼といえば急須」といわれるほどの代表的製品へと成長していきます。
江戸末期からは土管やレンガなどの建築用陶器の生産も始まり、やがて帝国ホテル旧本館の建材としても使用されました。
時代とともに多種多様なやきものを作り続けた常滑は、日本各地のやきものに多大な影響を与え、越前焼、信楽焼、丹波焼のルーツともなっていることから「六古窯の父」とも呼ばれています。

朱泥急須だけにとどまらない常滑焼の特徴

常滑焼は瀬戸焼と同じく猿投窯をルーツに持つやきものですが、焼締め製法によって作られており、人工的に釉薬をかけることはしません。窯の中で薪の灰が器に降りかかり、それが熔けてガラス質に変化した「自然釉」が特徴です。自然釉が素地の表面を流れて作る模様にはひとつとして同じものはなく、人知の及ばぬ火と土のせめぎあいが生み出す雄大で懐の深い美しさが魅力です。焼成前の器をぐるりと囲うように線を刻む「沈線(ちんせん)」や、櫛目で器の表面をひっかいた「猫描き(ねこがき)」で装飾されたやきものもあり、素朴な中にも多彩さがあります。
また、知多半島で採れる陶土は鉄分を豊富に含み、これを用いて製陶することによって、朱泥と呼ばれる美しい朱色の焼き上がりになります。この朱色を活かした朱泥急須は、常滑のやきものとして非常に有名です。

代表的な作家

三代 山田常山(やまだじょうざん 1924年~2005年)

山田常山は、慶応年間から現代にいたるまで五代に渡って作陶を続けている、常滑焼の名門です。特に三代目常山は朱泥急須作りの名工で、古典的なものからモダンなものまで、その作行は無限であると評されます。
1998年に常滑焼(急須)で人間国宝に認定されました。

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越前焼

越前焼

  • 分類:炻器
  • 産地:福井県越前町
  • 誕生:平安時代末期~

越前焼(えちぜんやき)の茶褐色に色づいた器肌は、鉄分を豊富に含んだ越前の土ならではの色です。焼成の過程で降りかかった暗緑色や乳白色の自然釉によって彩られ、硬く焼締まった器は素朴ながらも重厚で風格をたたえた作風となります。

全国区のシェアを誇った越前焼の歴史

越前におけるやきものの歴史はおよそ1300年前までさかのぼることができます。越前焼が始まったのは約850年前の平安時代末期とされています。
当時は水や穀物を保存するための甕、すり鉢、お歯黒壺などの日用雑器を中心に生産していました。これらの製品は北前船によって北海道から島根県まで運ばれていき、広く流通しました。こうして越前町は北陸最大の窯業地として発展していったのです。
明治時代になって水道の普及や磁器製品が広まるにつれて流通は縮小し、次第に衰退していきました。その後も大正時代から昭和の困難な時代にも窯の火を絶やすことなく生産を続けていきます。
1948年、水野九右衛門が越前焼の歴史を解明し、その歴史的価値が評価されることとなり、六古窯のひとつに名を連ねることとなります。
その後、1986年に越前焼は経済産業大臣指定の伝統工芸品となりました。

素朴で実直なやきもの越前焼の特徴

越前焼は常滑焼の技術を導入して始まりました。華やかな彩色や文様を施さず、飾り気のない素地に自然の灰釉がかかってできた模様を活かした、質素で奥深い佇まいが特徴です。
常滑焼同様に、焼成前の素地に沈線を刻んだものもあり、作り手が自分の製品であることを識別するために「窯印(かまじるし)」を刻んでいることもあります。
越前の土は石英などのガラス成分を多く含み、焼成することで土と土の間に微細なガラス質が溶け込んで隙間を埋め、しっかりと硬く焼締まります。
越前焼は硬くて密度が高く水漏れがしにくいため、甕や壺などを中心に、生活のあらゆる場で重宝されるやきものとなったのです。

信楽焼

信楽焼 辻清明

  • 分類:陶器
  • 産地:滋賀県甲賀市
  • 誕生:鎌倉時代中期~

信楽焼(しがらきやき)といえばタヌキの置物というイメージを持った方も多いでしょう。しかし信楽焼は、茶の湯の世界で一定の評価を受ける器であり、日常使いの器からタイルなどの工業用陶磁器にいたるまで、様々なニーズに応える製品を作ってきました。
新たな創造と伝統が共存する産地には「形になるものはなんでも作る」という、たくましくもしなやかな信念が受け継がれています。
そういった信楽焼のシンボル的な存在が、あのチャーミングで存在感のあるタヌキの置物というわけです。

忍者の隠れ里で生まれた信楽焼の歴史

甲賀流忍者発祥の地でもある滋賀県甲賀市で、信楽焼は生まれました。
信楽は山間の盆地にあり、まさに忍者の隠れ里のような立地ですが、東の伊賀(三重県)と西の山城(京都府)に隣接する交通の要衝でもあります。
鎌倉時代に常滑焼の技術が伝わり、日用雑器をはじめとしたやきものの生産が始まりました。信楽は大阪や京都に近く、これらの消費地で流通します。
室町時代から安土桃山時代には、茶の湯の隆盛に伴い、その素朴で風情のある作風が茶陶として茶人文人に好まれ、珍重されました。
江戸時代には、茶壺、土鍋、徳利、水瓶などの日用雑器が大量に生産されるようになり、江戸城下に供給されるようになります。この時期には将軍家へ献上する茶葉を収めるための「腰白茶壺」なども作られ、重宝されました。
明治期には新たに開発された「なまこ釉」を使用した火鉢の生産が始まり、これは昭和の第二次大戦時に金属が不足し陶磁器の需要が高まった際、全国シェアの80パーセントにもなりました。
なまこ釉を使ったやきものはその後も生産が続き、今日でも火鉢、傘立て、花瓶、食器など様々なバリエーションを見ることができます。
高度経済成長期には、庶民の生活様式の変化とともに需要が大きく減少しますが、時代に沿って主力製品を入れ替えることを辞さない柔軟な姿勢で、乗り越えてきました。

伝統と新たな創造が共存する信楽焼の特徴

信楽焼に使われる土は高耐火度と粗い性質が特徴で、粘り強く可塑性が高いため、大きなものや肉厚のものを作るのに適しています。
無釉で焼くと暖色のベージュやピンク、赤褐色の美しい火色をつけます。その表面に「ビードロ釉」や灰の焦げをつけることで、他産地にはない、素朴な中にも野趣あふれる風合いとなります。
焼成中に灰が焦げついた黒褐色の発色は「焦げ」、もっと色が薄いものは「灰かぶり」と呼ばれます。この色の変化は茶の湯の世界で特に好まれ、珍重されています。
信楽焼の代名詞でもあるタヌキの置物は、明治時代に作られたのが最初だといわれています。
1951年に昭和天皇が信楽町を行幸された際、たくさんのタヌキに日の丸小旗を持たせて沿道に立たせたエピソードが有名です。沿道を埋めるタヌキ達の様子をご覧になった天皇陛下は大変喜ばれて「をさなどき あつめしからに なつかしも 信楽焼の 狸をみれば」と歌に詠まれました。
このことが報道され、信楽焼のタヌキは一躍全国区となったのです。

代表的な作家

辻清明(つじせいめい 1927年~2008年)

東京生まれの清明は、骨董愛好家の父の影響で早くから焼物の魅力に目覚め、学校にも行かず陶芸を学びました。14歳になる頃には、のちに女流陶芸家となる姉とともに、富本憲吉や板谷波山に師事しています。
東京都多摩市に築いた窯を拠点として、信楽の土を用いた無釉の焼締陶器を中心に作陶しました。作陶のみならず、古美術品の蒐集や芸術家との交流を通して、「明る寂び(あかるさび)」と呼ばれる信楽ならではの美の世界観を作り上げました。

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丹波焼

丹波焼 生田和孝

  • 分類:陶器
  • 産地:兵庫県丹波篠山市
  • 誕生:平安時代末期~

丹波焼(たんばやき)の歴史は人々の暮らしの歴史でもあります。
京都と大阪に近く、山々に抱かれた丹波の里では、古くから大衆の生活に欠かせない生活雑器が多く作られてきました。日中戦争や第二次大戦時には軍事利用もされた丹波焼でしたが、その根底にはひとの暮らしを豊かにする器としての矜持が垣間見えます。

人々の暮らしに寄り添うやきもの丹波焼の歴史

六古窯の中で常滑焼の影響を受けた窯は、越前、信楽、そしてこの丹波でした。
丹波焼は平安時代末期頃に開窯し、壺、甕、すり鉢を中心に生産していました。初期は山の斜面に溝を掘り、天井を開けた「穴窯(あながま)」で焼成が行われていましたが、江戸時代に入ると朝鮮式の登り窯が導入され、短時間の焼成時間で多くの製品を作ることが可能となります。同時期に取り入れられた蹴りろくろや、さまざまな釉薬を用いて、庶民の暮らしに必要なやきものが大量に生産されます。
室町時代になると、常滑焼の影響を脱して丹波独自のやきものの形へと変化していきます。常滑焼の甕は肩が張って底に向かって窄まるようになっていますが、丹波焼の甕は胴長のソロバン玉のような形をしています。
その後も丹波独自の丸形、瓢形、六角面取などの「山椒壺」が登場します。朝倉という品種の山椒の実を入れて将軍家に献上するためのものでした。
江戸時代には丹波焼のすり鉢の堅牢さが重宝され、中部、関東以北に急速に普及していきました。
明治以降、鉄道網が発達し、丹波焼の販路は関西一円へと拡大していきます。酒や醤油を保存するための一升徳利が生産されるようになり、その後も中型徳利や植木鉢など、時代の需要に即した製品を作り続けていきました。
ところで、ここまでくり返し登場している壺、甕、すり鉢というのは、当時の生活に欠かせないもので、中世における三種の神器とも呼ばれます。食品を貯蔵、保存、運搬するための壺と甕。食材を細かくすり潰して混ぜるためのすり鉢。これらの登場は食の多様性に寄与し、当時の人々の生活水準を向上させることにつながったのです。頑丈で簡便なやきものというのは、中世の必需品でした。
中世に産声を上げた丹波焼は、その発祥から現在にいたるまで、伝統を活かしながら人々の暮らしに寄り添うやきものを作り続けています。

生活の器として発展してき丹波焼の特徴

丹波の土は粘りが強く、耐火度が高いという特徴があります。穴窯を用いて焼成していた時代の丹波焼は、焼締めることで光沢のある赤褐色に発色し、そこに流れる灰釉の鮮やかな緑色は「灰かつぎ」と呼ばれる非常に魅力的な模様を呈します。
焼成前の素地に先の尖った道具で文様を彫り込んだ「釘彫文(くぎぼりもん)」や、水甕などに魚を彫った「魚文(ぎょもん)」といった素朴な加飾が見られるものもあります。
花器や食器といった日常使いの器を主軸に、植木鉢や酒樽などの工業用のやきものも作られてきました。

備前焼

備前焼 金重道明

  • 分類:炻器
  • 産地:岡山県備前市
  • 誕生:平安時代末期~

釉薬を使わない土の風合いが独特な備前焼(びぜんやき)は、その名の通り岡山県備前市で誕生しました。山々から流出した土が田に堆積し、これがやきものに適した性質を持った陶土となりました。備前には昔から「窯は売っても田は売るな」という金言があり、その言葉には備前の豊かな土壌が生活においてもやきものにとってもいかに重要であるかが表れています。

瀬戸内海の自然に育まれた備前焼の歴史

備前焼の発祥は平安時代といわれており、それ以前の古墳時代から作られてきた須恵器が発展したものであるとされています。
平安時代末期には瓦、皿、碗などが生産され、鎌倉時代には壺、甕、すり鉢が作られるようになります。堅牢な備前焼は、液体を貯蔵するための器として優秀で、食品や薬品を砕くすり鉢の性能も高く、重宝されました。
鎌倉時代から室町時代にかけては山で採取される土が使われていましたが、大窯時代に入ると田で採れる土が主に使われるようになり、備前焼の特徴である艶やかでねっとりとした質感が生まれるようになりました。
備前市を流れる吉井川は岡山県三大河川に数えられる大水系です。備前焼はこの川を利用して各消費地に出荷されていきました。
室町時代から安土桃山時代にかけては、茶の湯の発展とともに茶陶として人気が高まりますが、やがて衰退していきます。
備前焼は水瓶、すり鉢、徳利などの生活用のやきものを主力器種に据え、地道に作陶を続けていきました。
江戸時代には幕府の庇護のもと、小規模の窯は統合され、大規模な共同窯が築かれました。共同窯は大饗、金重、木村、寺見、頓宮、森の窯元六姓と呼ばれる6つの家によって管理・経営されました。共同窯は大窯とも呼ばれ、これをもって備前焼の江戸時代を「大窯時代」と呼ぶこともあります。
時代がくだって昭和に入ると、金重陶陽によって桃山陶(桃山時代の茶の湯に用いられたやきもの)への回帰がはかられ、芸術性の高い調度品として愛好されるようになります。
1982年に経済産業大臣指定の伝統工芸品に指定されました。

火の芸術「窯変」によって変化する備前焼の特徴

備前焼といえばねっとりとした土の質感と「投げても割れない」といわれるその硬さが特徴です。備前焼には「干寄(ひよせ)」「田土(でんど)」と呼ばれる土が使われています。これは田の底の層を成す土で、粘度と鉄分含有量が高いという特性があります。この土を使うことで、艶やかでねっとりとした風合いのやきものに仕上がるのです。また、1200度以上の高温で約2週間をかけて焼成することで、ほかのやきものにない強度の高さがあらわれます。
さらに器の表面に非常に細やかな凹凸があり、これによって酒の味がまろやかで美味になるともいわれています。
備前焼は焼成の過程で赤色、鼠色、黄色、こげ茶色とさまざまに発色し、これは窯変(ようへん)と呼ばれます。備前焼にはこの発色をはじめとした、焼成時の多様な変化が魅力で、「緋襷(ひだすき)」「桟切り(さんぎり)」「胡麻(ごま)」「牡丹餅(ぼたもち)」などが知られています。
人工的な施釉を行わず過度な線刻も行わない備前焼は、鉄か岩かと見紛うばかりの堅牢さと質実かつ素朴な佇まいで、今も昔も多くのひとに愛されています。

代表的な作家

金重陶陽(かねしげとうよう 1896年~1967年)

陶陽は備前焼の名門・金重家に生まれました。
江戸中期以降、伊万里焼や九谷焼の人気が拡大し、一時は勢力が衰えた備前焼でしたが、陶陽はその人気を回復させることに成功し「備前焼中興の祖」と呼ばれています。
名工であっただけでなく、多くの弟子を育成し、その中から何人も人間国宝を輩出しています。長男・金重道明をはじめ、弟や息子たちも陶芸家となり、名を残しました。
陶工として優れた指導者として活躍し、備前ではじめての人間国宝となったのです。

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終わりに

六古窯が1000年もの間絶えることなく続いてきた理由は、ひとえに時代の要請に応え続け、人々の暮らしに寄り添い続けたことにあるといえるでしょう。
器はそもそも人の用に応えるものであるという命題を、六古窯はその長い歴史をもって体現しています。

 

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担当

小川芳朋

編集部

西洋陶磁器が専門。 美しい物と怖い物について書いています。 アンティーク食器のほか、蚤の市、廃墟、妖怪に詳しい。