明治の“牙彫”の最高峰、石川光明 盟友・高村光雲と共に彫刻界を席巻

彫刻・ブロンズ買取 2026.06.25

光明の祖父は浅草雷門を手掛けた宮彫大工だった

幼くして父、祖父を続けて亡くし根付師に弟子入りして牙彫の道へ

日本の彫刻界に名を刻んだ芸術家として、木彫の高村光雲とともに現代でも評価が高いのは牙彫の石川光明(こうめい、またはみつあき)でしょう。1852年10月1日(嘉永5年8月18日)、江戸は浅草。光明は、宮彫大工を生業とする家の倅として生まれました。曽祖父の時代に江戸に出てきた石川家は、幕府の御用工匠、つまり公共施設の造営や修理などを専属で請け負う腕利きの工匠を務めていました。祖父の藤吉は浅草寺雷門(正式名称は風雷神門)の彫刻を手掛けたと伝えられていますが、残念ながら当時の雷門は1866年(慶応元年12月14日)の火災で消失しています。
光明は幼名・藤太郎として育ちますが、3歳で父、9歳で祖父を亡くします。叔父の家で家業の宮彫の修行を積み、1862年(文久2年)、10歳で狩野寿信に入門して絵画を習います。1866年(慶応2年)からは根付師の菊川正光に弟子入りし、牙彫を習うようになりました。明治維新の直前、激動の時代にコツコツと修行を続けていたわけです。そして1872年(明治5年)、21歳で独立しました。

26歳で光明に改名、牙彫の世界で名を上げていく

第2回内国勧業博覧会で見事に受賞 その作品に感服した、ある彫刻家

石川光明

石川光明

石川光明

石川光明

非常に精緻な花嫁衣装を着た女性の牙彫。

非常に精緻な花嫁衣装を着た女性の牙彫。

1877年(明治10年)8月、26歳で名前を光明と改めます。この頃は牙彫を主な生業としていました。1881年(明治14年)の第2回内国勧業博覧会に出品した「牙彫魚籃観音像」と「嵌入の衝立」は、どちらも妙技二等賞を受賞しています。当時は牙彫の全盛期、光明の作品も注目を集めるようになりました。
実は、この第2回内国勧業博覧会への出品は、ある“出会い”ももたらしていました。光明の作品を見て「密かに感服」していた、ひとりの彫刻家がいたのです。その名は、高村光雲。光雲は1929年(昭和4年)、息子の詩人・彫刻家の高村光太郎らの協力も得て口述筆記による随筆集『光雲懐古談』を出版しています。この著書の中で、光明の作品と出会ったときの衝撃を語っています。一部を引用してみましょう。

「同氏の出品は薄肉の額で、同氏得意のもので、世評も大したものであったらしく、私が見ても牙彫界恐らくこの人の右に出るものはなかろうと思いました」

光雲はこの時、“石川光明”という名前をしっかり記憶に留めたと書いています。

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光明と光雲の出会い、そして長らく続く友情

他人の仕事ぶりが気になって仕方ない光明が1週間も見続けた光雲の彫刻

石川光明

石川光明

石川光明

石川光明

赤子を抱く老人の牙彫。自然な服のシワが印象的。

赤子を抱く老人の牙彫。自然な服のシワが印象的。

この頃の光雲は木彫家としてコツコツと仕事を続けていました。光明の作品を見て「顔は見知らぬが定めし立派な人であろう」と意識していたようです。そして、不思議な出会いが巻き起こります。光雲が下谷西町三番地にあった仕事場で彫っていると、朝な夕なに立ち止まって仕事を眺めている人がいたそうです。
光雲は以下のように書いています。

「その人というのは小柄な人で、髯をちょいと生やし、打ち見たところお医師か、詩人か、そうでなければ書家画家といったような風体で至極人品のよい人」

変わった人だなと思いながら過ごしていると、鋳物師の牧光弘が光雲に会いたがっている人がいると教えに来ました。誰かと聞けば、石川光明という答え。光雲はビックリして了承すると、牧はすぐに光明を連れてきました。すると、仕事場をよく覗いていた人が現れ、お互いに「あなたでしたか!」と驚きました。
光明の方は、実は光雲が師匠の高村東雲の元で修行をしている頃から、光雲の存在を見知っていたといいます。当時、光明が自宅のある下谷松山町から日本橋の馬喰町にある仕事場へ向かう道すがら、北元町にあった東雲の店を覗いていたのです。光明は職業柄もあって他人の仕事が気になって仕方ない。上手い人を見かけたら、じっくりと観察してしまう人だったようです。その当時、光雲が1週間かけて彫っていた西行像の工程もしっかり見ていたそうです。

兄弟弟子と間違われるほどの親友同士は教育者へ

光明が美術会への出品を勧めた結果 光雲の出世作が世に出ることになる

石川光明

石川光明

石川光明

石川光明

ふたりの子供と戯れる男の躍動感あふれる作品。

ふたりの子供と戯れる男の躍動感あふれる作品。

嘉永五年子歳の同年、同じ下谷生まれのふたりはすっかり意気投合。当時は牙彫で弟子を7、8人取るほどに活躍していた光明と、まだ無名だった光雲は切磋琢磨を続けます。光明は木彫に興味を示し、しきりに光雲に美術会に出品するべきだと進言。1880年(明治13年)、日本美術協会開催の観古展覧会(第1回)へ参加して白檀を彫った「蝦蟇仙人(がませんにん)」を出品。第一銅牌を獲得して美術界の第一線に躍り出ることになります。
光明と光雲は同じ“光”の字が入っていますし、いつも一緒にいたため兄弟弟子と勘違いされるほど仲が良かったと、光雲自身が振り返っています。
ふたりはその後も交流を続け、同時期に東京美術学校に勤務することになります。光明は文部省の美術展覧会審査員なども務め、東京彫工会で近代彫刻の発展に尽力していきます。1888年(明治21年)竣工の皇居造営の際には御学問所等の彫刻を担当するなど、彫刻界の第一人者としての活躍は続いていきました。

河鍋暁斎が描いた穏やかな光明の姿とは

河鍋暁斎との親しい交流 博覧会での受賞ラッシュ

石川光明

石川光明

石川光明

石川光明

蓮の葉の上に寝そべる、三十三観音のひとつである「蓮臥観音」。

蓮の葉の上に寝そべる、三十三観音のひとつである「蓮臥観音」。

光明は、浮世絵の河鍋暁斎とも親交が深く、暁斎の息子が光明のもとで修行していたとも伝わっています。暁斎の著書である『暁斎絵日記』には、光明の姿が描かれて残っているほどです。「石川光明先生が「ヨウカン」を持って、やってくる」と添え書きされた絵は、簡略化された線でヒゲを生やした紳士が正座する姿を描いています。笑顔で座る姿は、光雲が「至極人品のよい人」と書いている姿そのもの。光明は本当に穏やかで人好きのする御仁だったようです。光明は1889年(明治22年)4月の暁斎臨終の場にも立ち会っていたといいます。
40代になった光明は、さらに作品の冴えが増していきます。1893年(明治26年)、シカゴ万国博覧会に出展した「浮彫観音菩薩像」で優等賞、1895年(明治28年)、第4回内国勧業博覧会に出展した「木彫軍鶏」で妙技二等賞。1900年(明治33年)のパリ万国博覧会に出展した「古代鷹狩置物」は金賞、1907年(明治40年)の東京勧業博覧会と1910年(明治43年)の日英博覧会に出展した「額面群羊図」では一等賞と名誉金賞と、まさに受賞ラッシュが続きます。牙彫の世界ではまさに第一人者、この時代の作品はほとんどすべてが代表作と言っても過言ではないでしょう。

病の床でも研鑽を忘れず、木彫の名品を制作

病床でも彫り続けた木彫の傑作「野猪」を遺してこの世を去る

しかし、1910年(明治43年)、還暦を迎える前から胃を患い、仕事が思うようにできなくなっていきます。病床でも諦めずに作品を作り続けていました。1912年(大正元年)には現在、東京国立博物館に所蔵されている木彫の「野猪」を作っています。毛並みの流れが非常に美しく、牙彫と木彫、どちらもこなした光明の技術がよく分かる作品です。しかし、病魔に打ち勝つことは出来ず、1913年(大正2年)7月29日にその生涯を閉じることになりました。
光明が活躍した明治から大正にかけては、象牙を彫った牙彫の最盛期であり、多くの作品が作られました。日本美術界の主要な輸出品として世界中に散逸しており、海外での人気も高いものです。しかし、現代では象牙の加工品はワシントン条約などの国際的な保護制度により制限されており、新たなものは生まれません。光明の時代の牙彫は、今後現れることのない傑作なのです。柔らかな素材を精密な技術で彫った作品は、非常に貴重なもの。ぜひ手に取って芸術性を感じていただきたい逸品です。

担当

宮司泰輔

サイトコラム編集者

美術品・骨董品について、初めて勉強する方にも分かりやすいコラムを執筆中です。