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上野の西郷さん、丸の内の楠木正成は光雲の関連作
東京美術学校が制作したふたつの像は木型主任の高村光雲が原型を制作した
日本の“木彫”を世界に気づかせた、その圧倒的な写実性と芸術性。生涯で国宝級の作品を何作も手掛けた、歴史的大彫刻家こそ高村光雲です。
誰でも見られる作品で光雲が関連したものでは、上野恩賜公園にある西郷隆盛像、丸の内の皇居前広場にある楠木正成像が有名です。制作したのは東京美術学校。光雲はここで教鞭をとっており、木型主任としてどちらの像も木彫原型を制作しています。一度は見たことのある方も多いのではないでしょうか。光雲は仏師、彫刻家としてだけでなく、教育者としてもその腕を振るい、多くの弟子、生徒を育成しました。光雲以後の日本の彫刻は大きく発展したことは間違いありません。
大工のはずが仏師、そして木彫家へ
手に職を、と大工になる予定が床屋の勧めで仏師の道に進む

手のひらに収まるほどの「懐中仏」。非常に細かく彫られているのが分かる。
光雲は、1852年3月8日(嘉永5年2月18日)、江戸の下谷(現在の台東区)に生まれました。ペリーが浦賀に来た黒船来航の1年前、江戸時代が終わりに向かい始めた時期です。1863年(文久3年)、11歳で仏師の高村東雲の徒弟となります。最初は大工の弟子になる予定だったといいます。近所の床屋さんの勧めにより、東雲に弟子入することになったとされています。どちらの道に進んでも、同じ木工の道、名前を成したのは間違いないでしょうが、光雲は仏師となりました。しかし、時代は幕末。時代のうねりの中で、光雲は修業に励みました。
江戸時代が終わり、明治維新によって明治政府が誕生する過程で起きたのが、廃仏毀釈でした。神道を国家政策の中心に据えようと、仏教と分離させる行政改革でしたが、江戸時代の仏教隆盛に反発していた神職者中心に廃仏運動が活発化。1871年(明治4年)頃には収束し始めましたが、多くの仏像や仏具が失われました。廃寺になった寺院も全国に多数ありました。
仏師だった光雲にとっては最悪の事態です。仕事はほとんどない状態のなか、光雲は“写生”に活路を見出していきます。明治の時代で海外の作品にも触れることが出来たのが幸いし、西洋の挿絵や鉛筆画を研究することができました。日本の美意識とは違う“写実性”に気づいた光雲は、新しいタイプの木彫に専念していきます。
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職人から美術の世界へ飛び込み大活躍
博覧会に出品すれば受賞する無双っぷり 明治天皇絶賛、宮内省お買い上げに

写実的な日本神話に登場する「みちひらきの大神」「猿田彦」の木彫像。
当時、欧米との輸出用に象牙による牙彫(げちょう。象牙彫刻とも)が盛んに行われていました。手軽に稼げたはずですが、光雲は牙彫に転向せず、木彫を極める道を選びました。自ら感じた写実性をこめて、リアルに彫り進めていく彫刻家としての生き方を選んだのです。この頃の代表作に1877年(明治10年)の内国勧業博覧会に出品した『白衣観音』がありました。師匠の東雲に依頼された代作でしたが、博覧会とはなにかもよく分からず、言われるがままに出品したところ、最優秀賞に相当する龍紋賞を受賞したと言われています。
転機は1880年(明治13年)、日本美術協会開催の観古展覧会(第1回)への参加でした。白檀を彫った「蝦蟇仙人(がませんにん)」を出品し、第一銅牌を獲得することになります。当時29歳の光雲は、それまで日本美術界には全く興味がなく、関わりもほとんどありませんでした。この受賞をきっかけに、日本美術協会の会員になり、東京彫工会にも籍を置くことになります。それまで職人的に仕事を続けてきた光雲が、彫刻家、美術家としての評価を受け始めるきっかけとなりました。
その後は皇居の橋の欄干を手掛けるなどの仕事を経て、1889年(明治22年)にパリで開催された万国博覧会に出品するために『矮鶏置物(ちゃぼおきもの)』を作成することになりましたが、モデルの矮鶏を探すのに手間取り、出品できなくなってしまいます。それでも作品を彫り上げ、美術協会の展覧会に出したところ、明治天皇から絶賛されることに。宮内省買い上げとなり、光雲は一気にビッグネームとなります。最初は雄鶏だけでしたが、宮内省からの要請で雌鶏も追加作成、現在は皇居三の丸尚蔵館に所蔵されています。
東京美術学校の教師として後進を育てる
断りきれずに教師の道へ進むも多くの作品を残して教え子も多数

仏師としての技術がしっかり分かる光雲による「観世音菩薩 立像」。
光雲は同年の1889年(明治22年)、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に勤務することになります。当時、光雲は38歳。東京美術学校の創設に携わった思想家・美術史家の岡倉天心からの要請でした。しかし、美術界のことに疎い光雲は美術学校の存在すら知らず、天心からの使者の要請を断ってしまいます。しかし使者も頑なで、断るなら自分で直接断ってくれと譲らない。仕方ないので光雲は自ら天心のもとに赴き、再度辞退の申し出をしますが、天心から「仕事場でやっていることを学校でやってほしい。生徒はそれを見ることで勉強になる」と懇願され、断りきれずに承諾。教師生活を送ることになってしまいました。
創設時の東京美術学校には日本画科と木彫科があり、光雲は翌年に彫刻科教授、同年10月2日には帝室技芸員(宮内省によって運営されていた、美術家や工芸家の顕彰制度)となります。その後、西洋彫刻も教えるために「塑造科(そぞうか)」を新設。西洋彫刻の写実性も研究できる環境は、光雲には理想的だったようです。西郷隆盛像、楠木正成像だけでなく、多くの作品を手掛けました。
国宝『老猿』に隠された家族との別れ
娘を失い落胆するも、制作に没頭して気力を取り戻し、活躍を続けた
1893年(明治26年)、代表作であり、国宝にも指定されている『老猿』をシカゴ万博に出品し、優等賞を獲得します。現在、東京国立博物館に所蔵されているこの作品は、リアルな老いたニホンザルの姿を切り取ったもの。ゴツゴツした岩の上に堂々と座る猿の左手には、むしった鷲の羽が握られています。周辺には羽毛が飛び散り、鷲と老猿の壮絶な死闘の後が見て取れます。この作品に取り掛かっていた時期、光雲は長女である咲子を16歳で亡くしています。深く落胆した光雲は、制作しながら徐々に気力を取り戻していったともいわれています。
光雲は美術学校で教鞭をとりながら、1900年(明治33年)には『山霊訶護』をパリ万博に出品して金賞を受賞するなど、国際的な活躍を続けます。この作品も現在は皇居三の丸尚蔵館に所蔵されています。1926年(大正15年)に東京美術学校を退職し、名誉教授となった光雲は、その後も工房を運営しながら制作を続けていきました。光雲の弟子には山崎朝雲、山本瑞雲、米原雲海、関野聖雲、平櫛田中など近代の日本彫刻の第一人者たちが並びます。
息子たちも美術の道へ進み、名を残した
息子たちは詩人兼彫刻家、鋳金家として活躍日本の美術界に家族で大きな足跡をつけた

光雲作の「魚籃観音像」。観音菩薩の化身のひとつとされる。
弟子と同じように、自身の子供たちにも芸術の素養は受け継がれており、長男の高村光太郎は『道程』や『智恵子抄』でお馴染みの詩人であり、彫刻家・画家でもあります。三男の高村豊周は鋳金家として活躍し、金沢美術工芸大学名誉教授となりました。また甥の高村規は写真家です。光雲の美術への情熱は子孫にも受け継がれているのです。
光雲は昭和まで生き続け、1929年(昭和4年)には息子の光太郎らの協力も得て口述筆記による随筆集『光雲懐古談』を出版。光雲の人生を自らが語り、後の世に残しました。日本美術協会展覧会の審査員や内国博覧会の審査などを務めながら、日本彫刻界の重鎮として活躍を続けたのです。そして1934年(昭和9年)に満82歳で死去しました。
“近代の左甚五郎”とも称された圧倒的な技術と美術性、高村光雲の作品は現代でも飛び抜けた人気を誇っています。小さなものでもその価値は莫大、多くのコレクターの垂涎の的です。大工になりたかった少年が木彫に目覚め、紆余曲折を経て彫刻界を代表する教育者となり、最期は見事な大往生。上野にお散歩などの際は、ぜひとも西郷さんの像をじっくり見てほしいところ。光雲の“こだわり”を感じてみてはいかがでしょうか。
