鍋島藩(佐賀)直営の窯で作られた日本屈指の高級磁器は現代でも大人気

陶磁器買取 2026.06.12

肥前国、鍋島藩が磨き上げた最高の磁器

伊万里焼と鍋島焼の関係と陶器と磁器の違いについて

透き通るような白磁に桜の淡い色合いが素晴らしい

透き通るような白磁に桜の淡い色合いが素晴らしい

 日本には多数の焼き物が存在しますが、その中でもトップクラスの人気を誇るのが鍋島焼です。江戸時代、肥前国(佐賀、壱岐と対馬を除く長崎県)の佐賀藩を治めていた鍋島家。“鍋島藩”とも呼ばれるこの地では、多くの陶磁器が作られました。
 17世紀初頭、大陸から多くの陶工が九州地方にやってきて、九州各地で陶磁器の生産が盛んになります。福岡の高取焼や上野焼、佐賀や長崎の唐津焼などは朝鮮から渡ってきた陶工によって立ち上げられました。同じように有田周辺の窯で作られ、伊万里津の港から出荷されていた焼き物を伊万里焼と呼びます。同地区で作られていた有田焼、長崎の佐世保で作られた三川内焼(平戸焼)、長崎の東彼杵郡波佐見町の波佐見焼なども伊万里津から出荷されていたため、伊万里焼の範疇に入ります。
 ちなみに、陶器とは有色粘土に長石などを混ぜ、1000〜1300℃の比較的低温で焼成したものとなります。素地にガラス成分が少ないため、吸水性があります。素朴な印象のものが多いのが特徴です。一方、磁器は白いカオリン(陶石、ケイ酸塩鉱物)を原料にして1300〜1400℃の高温で焼成されます。そのためガラス成分でコーティングされたようになり、吸水性がなくて硬いのが特徴です。当時、伊万里地方で焼かれていたのは陶器が主でした。鍋島焼は磁器となります。

数ある伊万里焼の中でも特別な“鍋島焼”

有田と伊万里の間の山の中にひっそりと作られた重要拠点

 肥前国有田・伊万里(佐賀県有田町、同県伊万里市)は現代でも伝統産業としてその技術を伝え続けていますが、なかでも鍋島焼は“別格”でした。伊万里の中の大川内山、今の佐賀県伊万里市南部には鍋島藩直営の窯がありました。この窯では藩主の使用するものや、将軍家や朝廷、諸大名への贈答品に特別高級な製品が作られていました。近代以後、これらの窯で焼かれたものを「鍋島焼」や単に「鍋島」、伊万里焼のなかの「鍋島様式」とも呼ばれるようになります。
 鍋島焼が作られるようになった時期は、藩の資料にも詳細が残っていないため、現在もはっきりしていません。1675年(延宝3年)に有田と伊万里の中間にあった山、大川内山に鍋島藩御用窯が移されたとされています。発掘調査では1660年頃ともされていますが、諸説ありということです。それ以前には有田の岩谷川内から南川原に窯があったとされていますが、岩谷川内から大川内山に直接移ったという説もあります。

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門外不出が徹底された大川内山窯の秘密

士分に近い身分を与えられた職人たちによる“隠れ里”

 現在も鍋島焼とされるものは、ほぼ大川内山窯で作られたものとされており、1952年(昭和27年)以後に行われた大川内山窯跡の発掘調査の結果もそれを裏打ちしています。ただ、当時のものは制作年を明確に記していないものが多く、年代による作風変化で判断するのは難しいとされています。この窯で制作された磁器は、高い品質を誇っていました。鍋島藩はこの技術を秘匿し、技法が他に漏れないように徹底的にガードしたとされています。大川内山窯は1871年(明治4年)まで高品質な磁器を焼き続けました。しかし、廃藩置県により藩窯御細工屋は解散することになります。
 藩窯御細工屋はいわゆる磁器工房のようなものです。伊万里鍋島焼協同組合の資料によると、1670年(寛文10年)頃には細工方11人、画工9人、捻細工4人、下働き7人の計31人が働いていたとされます。他にも手伝いをする人々や鍛冶屋や石工など多くの人が働いていたようです。陶工は武士と同じように藩から給料が出ており、名字を名乗ることも許されていました。その一方で情報漏洩を防ぐために、厳しい統制が敷かれていたとされています。管理する役所も存在しており、窯への出入りも制限されていました。失敗作も欠片から製造法を解析されないように全部打ち割っていたので、残っている数はさらに少なくなったわけです。
 廃藩置県での解散後は、赤絵町の今泉今右衛門家がその技法と伝統を引き継ぎました。今もその伝統は引き継がれており、2014年には当代である14代今右衛門が重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されています。

鍋島焼の皿のサイズは決まっている?

1尺、7寸、5寸、3寸の4種類の定まったサイズ

綺羅びやかな花が描かれた3寸皿

綺羅びやかな花が描かれた3寸皿

 大川内藩窯で焼かれていたのは、ほぼ食器だとされています。香合の作例が若干確認されていますが、茶陶はほとんどないようです。壺や瓶、香炉も存在しますが、メインで作られていたのは皿でした。木盃形(もくはいがた)と称される独特の形状が特徴とされており、高台が高く張りのあるカーブを描くといいます。種類は白磁に呉須(藍色)絵の具だけで描かれた染付、染付に主に赤や黄、緑で絵付けされた色絵、深い青緑色の釉薬がかかった青磁があり、これらを組み合わせたものも見つかっています。描かれた柄は草花や山水画のような風景、規則的な模様の組み合わせ柄などがあります。
 鍋島焼で分かりやすいのはサイズで、直径1尺(約30cm)、7寸(約21cm)、5寸(約15cm)、3寸(約9cm)の定まった大きさで作られています。これより大きかったり小さかったりするものはありません。鍋島藩が管理しやすくするためにこれらの決まり事を決めていたとされています。個数管理もされており、年間5000個ほどを作ることに決められていました。伊万里焼という括りになると年間に何十万という数が焼かれていたため、鍋島焼の希少性が分かります。鍋島藩はこのレア感を上手く活用し、将軍家に鍋島焼を献上しました。関ヶ原の戦いで西軍についた鍋島家は、徳川政権下では完全に外様扱い。信頼回復、気に入られるために磁器を贈りまくったわけです。外様大名にも関わらず、取り潰しや領地替えなどを受けることがなかったのは、鍋島焼効果だったという説もあります。お家を守るためにも必要なことだったのでしょう。

将軍ごとの統治で変遷する鍋島焼の特徴

暴れん坊将軍の時代には質実剛健な作風に変化した

 鍋島焼が現在も大変貴重とされているのは、これらの鍋島藩による徹底管理の結果です。そもそも焼かれた数が少なく、その結果、市場に出回ることはほとんどないわけです。そして他の伊万里焼と比べても圧倒的に技術水準が高く、芸術性も極めて高いということになります。時期によって特徴は違い、17世紀後半(1651〜1700年)の作品は色鮮やかで豪華な絵付けの派手な作品が多く、国の重要文化財に指定されているものもあります。8代将軍吉宗の時代(1716~1745年)には倹約令の影響で青一色の染付中心の地味で質実剛健な作風へと変化します。10代将軍家治(1760〜1786年)には献上品のデザインが12種類に限定されます。よりシステマチックに形式化されていきました。現在まで続く鍋島焼の基本が形作られたようです。

江戸時代の鍋島焼が出てきたら億超えも

江戸時代の逸品が見つかればその美術的価値は天井知らず

 明治維新後、藩のバックアップもなくなった鍋島焼は大正期以後に鑑賞陶磁として注目されるようになります。高級で高品質な磁器として生き残り、現代でも大川内山の窯元たちは新たな品を作り続けています。
 骨董としては、やはり江戸時代のものが最も価値が高くなります。億超えもあるレベルで貴重ですが、滅多に出てきません。とはいえ、明治以後でも素晴らしい作品が沢山製造されており、高額がつくこともあります。作品の状態や年代、大きさや希少性で変わりますが、探してみるのも楽しいでしょう。
 江戸時代から令和の今まで脈々と受け継がれてきた鍋島焼の伝統。透き通るような、真っ白な磁器を眺め、歴史のロマンを感じてみるのも乙なものです。