美しく華やかな作品で知られる尾形乾山の生涯は京都、江戸の文化人との交流の歴史

掛け軸買取陶磁器買取 2026.06.06

乾山を形作った実家・雁金屋の成り上がりっぷり

皇室御用達の豪商が実家 文化にまみれた少年時代

シンプルに絵付けされた菓子皿

シンプルに絵付けされた菓子皿

 江戸時代の陶工、絵師である尾形乾山は、現代でも圧倒的な人気を誇り、その作品は重要文化財が目白押し。京都・清水焼の名工として知られています。

 6歳上の兄は、画家、工芸家として知られる尾形光琳。兄弟揃って美意識の高い生涯を送りました。その土台となったのは、実家が豪商だったという環境によります。

 寛文3年(1663年)、京都の呉服商、雁金屋に生まれた乾山。雁金屋は、元々は足利義昭に仕える上級武士であったとされていますが、正確なことは分かりません。浅井長政の家来筋だった二代目の道柏の時代に染色業を開始し、波に乗っていきます。浅井家の三人娘の淀君、京極高次夫人の初、徳川秀忠夫人の達子らに引き立てられて、高級呉服を商うようになったのが繁栄の始まりでした。商売の成り立ちの時点で歴史上のビッグネームの名前がゴロゴロ出てくるわけですから、まさに大商家。三代目の宗柏の時代には皇室にも出入りを許され、将軍家と東福門院和子(徳川秀忠の娘で第108代天皇・後水尾天皇の皇后)のセレブパワーを後ろ盾にどんどん発展していきました。店舗の正確な場所は不明ですが、当時の京都の上京区、中立売小川の辺りが候補地と伝えられています。

派手で遊び人の兄と、実直で真面目な弟 数寄者・本阿弥光悦は乾山の親戚筋

当時の文化の最先端“光悦村”と実家の事業破綻による没落期

 宗柏の同時代には、“寛永の三筆”のひとりであり、書や陶芸だけでなく能楽や茶の湯に通じた“数寄者(すきしゃ)”である本阿弥光悦が活躍していました。本阿弥家は刀剣の鑑定や研磨を家業としていましたが、光悦は書では光悦流の祖、陶芸や漆芸でも多くの作品を残すなど、マルチプレーヤーとして活躍する文化系の寵児。そして、実は光悦は尾形家二代目・道柏の妻であった法秀の弟であり、乾山や光琳とは親戚関係でもあります。

 光悦が元和元年(1615年)に徳川家康から京都洛北の鷹峯の地を拝領、一族や徒弟、職人仲間と移住し「光悦村」(芸術村、文化村とも呼ばれる)を営んだ際には、尾形宗柏も参加しています。四代目の宗謙、その息子である藤三郎、市之丞(光琳)、権平(乾山)の三兄弟も当時の最新文化の中で育ちました。

 我が世の春のように多くの文化を吸収した尾形家=雁金屋でしたが、延宝6年(1678)、年間5000両以上もの発注があったとされる東福門院が死去。雁金屋は最大のスポンサーを失います。ちなみに、幕末時点で1両は10万ほどといわれていますので、5000両は5億以上。江戸時代の時期によって貨幣価値は違うのですが、全体で均すと1両17万という説がありますので、それで計算すると8億5000万円。この売り上げがそっくりなくなったわけです。業績が傾いた雁金屋は「大名貸し」(裕福な商人が財政難の諸大名(藩そのもの)に資金を貸し付ける金融業)を始めますが、大名は金を返してくれず貸し倒れ(回収不能)を連発。雁金屋は没落していきます。

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20代から隠遁生活状態で禅に没頭

遺産を速攻で使い果たした兄に対し勉強と陶芸の修行に励む日々

乾山 染付 牛香合

乾山 染付 牛香合

 没落したとはいえ、しっかり溜め込んでいた雁金屋、貞享4年(1687年)に宗謙が死去し、家督は長男の藤三郎が継ぎました。父の遺言でふたりの弟である光琳と乾山が相続した財産は莫大なものでした。室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峰3つの屋敷と書籍・金銀などの諸道具を折半したとされていますが、遊び人の光琳はあっという間に使い果たしていきます。そのため必死で絵を描くことになり、元禄5年(1692年)には光琳として歴史に登場します。実家と同じように公家や大名などに多くのパトロンを持ち、絵師として名を成していきます。

 一方の乾山は内省的だったため、質素な生活を好んで半ば隠遁生活を送りました。元禄2年(1689年)、仁和寺の南、習静堂と名付けた庵で禅や学問に没頭していきます。この当時、仁和寺門前には京焼色絵陶器を完成させた陶工として知られる野々村仁清が住んでいました。乾山はこの仁清から陶芸を師事したと伝わりますが、これが初代の野々村仁清か二代・仁清かははっきりしていません。どちらにしても、色絵の技法を当代随一の名工から学んだ乾山は、高度な技術を土台にしていくことになります。

鳴海窯を開いて自身の号を“乾山”に

自身の窯を持ち、作品づくりに没頭 兄とのコラボも数多く手掛ける

華やかな装飾が施され、琳派の影響が感じられる

華やかな装飾が施され、琳派の影響が感じられる

 1694年(元禄7年)になると乾山は鳴滝泉谷町に窯を築きます。その名を“鳴滝窯(なるたきよう)”。そして、都の北西(乾)の方角に当たる場所であることから、号を“乾山”としました。この時、乾山は37歳。抹茶碗や香合などの茶道具中心に、仁清から学んだ技術もふんだんに使って作品を作り続けます。この頃、兄の光琳も絵画や蒔絵で琳派として大活躍中。乾山は兄の美学も陶器に取り入れ、琳派陶芸の基礎を築いていきます。華やかな色使い、独創的なデザインは、兄弟が幼い頃から最先端の文化に触れ続けた生活に培われたものなのでしょう。

 1712年(正徳2年)、50歳になった乾山は鳴滝窯を閉じて、京都市中京区二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入北側)に移り住みます。借窯を使って多彩な作品群を生み出し、乾山が器を作り、光琳が絵付けを行った合作も数多く手掛けます。

江戸へ移住して東西の文化を吸収

江戸や栃木の佐野で作品を作るも後に真贋論争を巻き起こすことに

ゴツッとした素朴な形は茶人に人気

ゴツッとした素朴な形は茶人に人気

 享保16年(1731年)、69歳で江戸の入谷へと移ることになります。仁和寺の公寛法親王に随行しての江戸行きです。第四代輪王寺宮門跡であり天台座主(第48世)でもある公寛法親王(こうかんほっしんのう)の知遇を得て、江戸に滞在することになります。京都で学んだ技術を、江戸の文化人や茶人に広めて交流、江戸の技術も取り入れていきました。

 元文2年(1737年)9月から初冬にかけては下野国佐野(栃木県佐野市)で陶芸の指導を行っている事がわかっています。佐野市で醸造業などを営んでいた資産家、須藤杜川(とせん)は多くの文化人と交流があり、乾山を招きました。敷地内には乾山の窯もあったといいます。当時の佐野は書や俳句をたしなんだ風流人として医者の大川道顕(どうけん)などもおり、乾山だけでなく陽明学者の中根東里や俳人の加賀千代女(かがのちよじょ)、文人画家の渡辺崋山などが訪れていました。

 この時期の作品は「佐野乾山」と呼ばれていますが、真贋論争も巻き起こった曰く付きでもあります。1960年代に200点を超える大量の“佐野乾山”が出回るも、真贋で評価が分かれ、“日本最大の真贋事件”と呼ばれるほどの大騒動になりました。2015年になって乾山の自筆伝書「陶磁製方(佐野伝書)」と「素焼きの皿」3点が発見。本物の存在が確認されています。

乾山ブランドは大正時代まで続いた

京都の尾形家の菩提寺では光琳と乾山の墓が並んでいる

1743年(寛保3年)、江戸に戻った乾山は、81歳で生涯を終えます。乾山には子がいませんでしたが、乾山の号は6代続きました。二代目は養子で、京都で工房を開いていました。三代以後は江戸在住で、乾山プランドを継承していきました。しかし、昭和44年(1969年)に六代乾山(大正12年(1923年)没)で終わらせることを関係者の協議により決定したため、現在は乾山ブランドは継承されていません。

 現在も乾山の名は広く知られ、その作品の人気は衰えていません。しかし、真贋論争の影響などもあり、模倣した作品も多数存在するのは確か。気になる作品がある場合は、鑑定を依頼すると安心できます。

 乾山の墓所は、京都市上京区の泉妙院と東京都豊島区の善養寺にあります。京都の泉妙院は尾形家の菩提寺であり、兄の光琳と乾山の墓が並んでいます。正反対の兄弟は、仲良く文化的な子供時代を過ごした京都で眠っているのです。

 

担当

宮司泰輔

サイトコラム編集者

美術品・骨董品について、初めて勉強する方にも分かりやすいコラムを執筆中です。