『境界なき実験室(ラボラトリー)の系譜 ― ラ・ママ実験劇場の歴史的意義と変遷』

その他 2026.07.22

ajay_suresh, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons

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はじめに

20世紀後半の演劇史において、ニューヨークのマニュファクチャリング・ディストリクトやダウンタウンは、既成の芸術的ヒエラルキーを覆すパラダイムシフトの揺籃(ようらん)の地であった。その中心に位置し、1960年代に勃興した「オフ・オフ・ブロードウェイ運動」の最たる牽引車となったのが、ラ・ママ実験劇場(La MaMa Experimental Theatre Club、以下「ラ・ママ」)である。1961年にアフリカ系アメリカ人の女性ファッションデザイナーであったエレン・スチュワートによって創設されたこの極小の空間は、単なる演劇の上演場所を超え、商業主義に硬直化したアメリカ演劇界への痛烈な批評空間として機能した。本稿では、ラ・ママの創設から現在に至る変遷を辿りつつ、若き才能の育成、国際的前衛演劇の交錯、そしてマイノリティのエンパワーメントという3つの軸から、その歴史的意義を具体的な事例とともに考察する。

創設の背景と初期の変遷 ― 地下室のブティックから世界の聖地へ

ラ・ママの出発点は、マンハッタンのイースト・ビレッジ(イースト9丁目321番地)の地下にあった、わずか25席ほどしか持たない私的なスペースであった。創設者エレン・スチュワートは、自らの劇作家の友人や弟たちが、既存のブロードウェイやオフ・ブロードウェイの商業主義的なシステムから排除され、発表の機会を奪われている現状を憂い、彼らのための「避難所(ヘイヴン)」として場所を提供した。
当初「カフェ・ラ・ママ」としてスタートしたこの空間は、演劇ライセンスの不在や、人種的な偏見に基づく周囲からの圧迫(売春宿と誤認されるなどの苦難)を経験しながらも、行政の規制を潜り抜けるためにコーヒーを提供する「非営利の会員制クラブ」という形態を選択した。エレンは入場料を徴収せず、終演後にバスケットを回して観客からの投げ銭を募るスタイルを徹底した。

この経済的束縛からの解放こそが、ラ・ママを「失敗の自由が担保された実験室」へと変貌させる決定的な要因となった。その後、劇場は急成長を遂げ、1969年には現在の本拠地である東4丁目74A番地へ移転し、複数の劇場スペース、リハーサル室、世界的な前衛演劇の記録を保管するアーカイブを擁する巨大な文化複合体へと拡大していくことになる。

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歴史的意義① ― 商業主義からの脱却と若き才能の育成

ラ・ママが果たした最大の歴史的意義の一つは、20世紀後半のアメリカ文学・演劇界を代表する無名の若者たちに最初の門戸を開いたことにある。ブロードウェイのように「巨額の資金回収」や「大衆受け」を至上命題とする場では、前衛的な表現や不条理なプロットはリスクとみなされ、排除される。しかしラ・ママは「劇作家の劇場(Playwright’s Theatre)」を標榜(ひょうぼう)し、いかに難解で過激なテキストであっても、その独創性を最優先した。
その具体的な例が、後にアメリカを代表する劇作家・俳優となるサム・シェパードである。彼はラ・ママという制約のない空間で、アメリカの神話を解体するような実験的な初期作品を発表し、演劇界に衝撃を与えた。同様に、ランフォード・ウィルソンや、性やアイデンティティの境界を揺るがしたハーヴェイ・ファイアスタイン、アフリカ系女性劇作家のアドリアン・ケネディらが、ラ・ママという肥沃な土壌から羽ばたいた。
さらに、1960年代のカウンターカルチャーおよびヒッピー文化のアイコンとなったロック・ミュージカル『ヘアー(HAIR)』のプロトタイプや、初期の実験的上演のプロセスにもラ・ママのネットワークは深く関与している。商業演劇が「完成された消費財」を売る場所であるならば、ラ・ママは「生成変化する芸術のプロセス」そのものを提示する場所であり、それがアメリカ現代演劇のオルタナティブな基礎を形作ったのである。

歴史的意義② ― 国際的クロスオーバーと日本の前衛演劇

ラ・ママの意義は、アメリカ国内に留まらない。エレン・スチュワートは極めて早い段階から「言葉に頼らない、普遍的な演劇言語」の可能性を直感し、世界の演劇人をニューヨークへ招聘()すると同時に、ラ・ママのカンパニーを率いて世界中をツアーした。これにより、東西冷戦期において分断されていた芸術的交流のハブとして機能することとなった。
ラ・ママは、ポーランドの演出家タデウシュ・カントールや、フランスのピーター・ブルック、さらに「貧しい演劇(Poor Theatre)」を提唱したイエジー・グロトフスキら、欧州を代表する前衛演劇人の作品や活動がアメリカで広く紹介される場の一つとなった。
そして、この国際的な相互作用において最も特筆すべきなのが、日本の前衛演劇演劇との深い結びつきである。1970年代、日本の「アンダーグラウンド演劇(アングラ)」運動の旗手であった寺山修司率いる「演劇実験室◎天井桟敷」や、鈴木忠志の「早稲田小劇場」、東由多加の「東京キッドブラザース」などがラ・ママの舞台に立った。
特に寺山修司の『邪宗門』『毛皮のマリー』などの上演は、日本の伝統的な身体技法(能や歌舞伎の静動)と、土着的な情念、そして言語を超越した視覚的・聴覚的演出が融合したものであり、ニューヨークの批評家や観客に強烈な驚きを与えた。また、舞踏家の(大野一雄)もラ・ママのネットワークを通じて世界にその肉体を提示した。
エレン・スチュワートが日本の前衛演劇をいち早く見出し、物心両面でサポートしたことは、日本のアングラ演劇がドメスティックな流行に終わらず、「世界の現代演劇史(シアター・ヒストリー)」の文脈へ正当に組み込まれるための決定的な契機となったのである。

歴史的意義③ ― マイノリティのエンパワーメントとトランスナショナルな包摂

ラ・ママのアイデンティティを語る上で、創設者エレンが「アフリカ系アメリカ人女性」であったという事実は極めて重い意味を持つ。1960年代のアメリカは、公民権運動の嵐が吹き荒れる一方で、依然として激しい人種隔離やジェンダー不平等が残存する社会であった。演劇界もまた、白人男性中心の構造が強固であった時代において、エレンは「社会的に過小評価され、資金援助を受けられない(Underrepresented & Underfunded)アーティスト」を無条件で受け入れる方針を貫いた。
ラ・ママの舞台では、黒人、アジア系、ラテン系、そしてLGBTQ+のアーティストたちが、自らのセクシュアリティやルーツを検閲(Censorship)されることなく、ありのままに表現することが許された。これは単なる「政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」の先取りではない。純粋に芸術的な衝動を社会の抑圧から保護するための「聖域」の構築であった。彼女のこの姿勢は、後にメルボルンで設立された「ラ・ママ・シアター」をはじめ、世界各地に「オルタナティブ・スペース」という概念を輸出・定着させる契機となり、世界中のローカルな前衛演劇の拠点のモデルケースとなった。

終わりに

ラ・ママ実験劇場は、1961年の誕生から半世紀以上にわたり、演劇を商業主義の奴隷から解放し、人間の最も原始的かつ先鋭的な表現の場として機能させ続けた。その変遷は、地下室の極小カフェから、数々のオビー賞やトニー賞(地域劇場賞)に輝く世界最高峰の文化制度へと至る、奇跡的なサクセスストーリーであると同時に、常に原点である「実験精神」と「他者への包摂」を失わない闘争の歴史でもあった。

サム・シェパードに代表されるアメリカ前衛文学の育成、寺山修司や鈴木忠志らを通じた日米・国際演劇の越境的対話、そしていかなる属性のアーティストも拒まない寛容性は、現代の演劇が持つ「多様性(ダイバーシティ)」の基盤を築いたと言える。エレン・スチュワートが鳴らし続けた「ラ・ママのベル」の響きは、彼女が世を去った後も、現在の芸術監督ミア・ユーらによって引き継がれ、境界なき実験室として今なお世界の前衛演劇をけん引し続けている。

担当

田川伸一

随筆家

随筆家。「文化史」「比較文化」など文化を通して現代社会にアプローチし、執筆活動を行う。美術に関するエッセイなどを更新中。