重力からの解放 マルク・シャガール『散歩』に描かれた愛

絵画・版画買取 2026.09.03

マルク・シャガール《散歩》1917年
所蔵:ロシア美術館(サンクトペテルブルク)
Image: Wikimedia Commons / Public Domain

序章:重力からの解放

草地にしっかりと足をつけた男が、片方の手で、風に舞う絹のヴェールのように軽やかに宙を舞う女性の手を固く握りしめています。

マルク・シャガールの『散歩』のなかで、恋人たちは地球の引力をいとも簡単に置き去りにしています。男の表情はどこか誇らしげであり、女性の身体はふわりと空へ溶けていくようです。

重力という物理的な縛り、あるいは地上の冷たい現実のすべてが、二人のつないだ手の温もりによって無効化されているかのようです。

このあまりにも無邪気で、それでいて圧倒的な説得力をもつ浮遊感は、見る者に「愛とは何か」という根源的な問いを、論理ではなく直感として投げかけてきます。

描かれている女性は、シャガールの妻ベラです。

二人は1915年に結婚しました。シャガールにとってベラは単なる伴侶ではなく、その後の作品に繰り返し登場する重要な存在となりました。恋人たちが空を飛び、抱き合い、花束に包まれる――後にシャガール芸術を象徴することになる幻想的な世界は、彼自身の人生と深く結びついていたのです。

第1章:激動のロシア革命と、記憶のなかのヴィテブスク

『散歩』が制作されたのは、一般に1917年とされています。

そのころ、シャガールを取り巻く世界は激しく揺れ動いていました。

1914年には第一次世界大戦が始まり、1917年にはロシア革命が起こります。長く続いたロシア帝国の体制は崩れ、社会の仕組みそのものが大きく変わろうとしていました。

1912年頃のヴィテブスクの街並み
Photo: Sergei Mikhailovich Prokudin-Gorsky / Library of Congress / Wikimedia Commons/ Public Domain

シャガールが生まれ育ったヴィテブスクは、現在のベラルーシに位置する都市です。彼はそこでユダヤ人家庭に生まれ、幼少期からユダヤ人街の暮らしや宗教文化、人々の日常を目にして育ちました。

父はニシンを扱う仕事に従事し、一家の生活は決して裕福なものではありませんでした。また、当時のロシア帝国に暮らすユダヤ人を取り巻く社会状況にも、さまざまな制約や差別が存在していました。

したがって、現実のヴィテブスクは、決して穏やかで美しい楽園だったわけではありません。

しかし、シャガールの絵画に現れるヴィテブスクは、単なる地理上の都市とも異なっています。

小さな家々、教会や祈りの場、家畜、働く人々、音楽を奏でる者たち――。現実の風景は彼の記憶のなかで組み替えられ、やがて現実と夢との境界を失っていきます。

そこにあるのは、シャガール自身の記憶と郷愁によって形づくられた「心の故郷」ともいうべき場所です。

革命の足音が響き、明日の生活さえ見通しにくい時代にあって、シャガールはベラとの幸福な時間を描きました。

地に足をつけて歩くことさえ困難に思える時代に、彼の画面では、恋人たちはむしろ重力から解き放たれていきます。

それは現実からの単純な逃避というよりも、地上を覆う不安とは別の場所に、愛と記憶による世界を築こうとするかのようにも見えます。

『散歩』に描かれた浮遊は、現実の重さに対してシャガールが差し出した、極めて詩的なイメージだったのかもしれません。

この記事を読んでご興味をお持ちの方へ

お手元の骨董品・美術品の価値が気になりましたら、お気軽にご相談ください。
古美術永澤では出張・宅配・持込みにて無料査定を行っております。

第2章:ユダヤ文化とパリの前衛芸術が交わる場所

シャガールの幻想的な世界を考えるとき、その背景にあった東欧ユダヤ文化を無視することはできません。

シャガールが育った地域にはハシディズムを含むユダヤ教の宗教文化が根づいており、日常生活と信仰、音楽や物語は密接に結びついていました。

20世紀初頭、ポーランド・スタシュフのハシディズム信徒
Photo: Unknown / Wikimedia Commons / Wikimedia Commons/ Public Domain

シャガール自身の作品とハシディズムとの関係についてはさまざまな解釈がありますが、彼の作品に登場する祈る人々やヴァイオリン弾き、動物、故郷の風景などには、東欧ユダヤ社会の記憶が色濃く投影されています。

一方で、シャガールは伝統だけを描いた画家ではありませんでした。

1911年にパリへ渡った彼は、モンパルナスにあった集合アトリエ「ラ・リュッシュ(蜂の巣)」を拠点とし、当時の最先端の芸術に触れます。

パリではキュビスムやフォーヴィスムをはじめ、新しい造形や大胆な色彩表現が次々と生まれていました。

シャガールもそれらから大きな刺激を受けます。

しかし、キュビスムの造形的な実験をそのまま追随することはありませんでした。

新しい色彩や構成を取り入れながら、その画面に描いたのは、故郷ヴィテブスクの記憶やユダヤ文化、動物、恋人、音楽、そしてベラへの愛でした。

つまり、パリで出会った近代絵画の言語を、自らの記憶を語るための言語へと変えていったのです。

近代的な画面構成のなかに、古い民話のような世界を同居させること。

現実と幻想、西欧の前衛芸術と東欧の記憶、そして個人的な愛の物語。

本来なら相反するはずのものを、一枚の画面のなかで自然に共存させてしまうところに、シャガールの独自性があります。

第3章:美術市場におけるシャガールと「愛」の主題

今日、シャガールは20世紀を代表する画家の一人として、世界の美術市場でも高く評価されています。

なかでも1910年代の作品は、後のシャガール芸術を形づくる重要な時期の制作として、美術史的にも大きな意味をもっています。

もちろん、美術市場における作品の評価は、単純に制作年代だけで決まるものではありません。

油彩、水彩、グワッシュ、版画などの技法、作品の大きさ、主題、制作年代、来歴、保存状態、展覧会歴、作品集への掲載歴など、さまざまな要素が総合的に判断されます。

また、シャガールは長い生涯のなかで膨大な作品を残した画家です。そのため、「シャガールの作品」というだけで一律の価値がつくわけではなく、作品ごとの差も非常に大きくなります。

そのなかでも、恋人たちや故郷ヴィテブスク、花束、動物、ヴァイオリン弾きなど、シャガールを象徴する主題が描かれた作品には根強い人気があります。

マルク・シャガール《誕生日》1915年
所蔵:ニューヨーク近代美術館(MoMA)
Image: Wikimedia Commons / Public Domain

『散歩』にも、その後のシャガール芸術を特徴づける要素がすでに鮮やかに現れています。

故郷の風景があり、恋人がいて、現実にはあり得ない浮遊があり、それにもかかわらず、画面から伝わってくる感情には不思議なほどの実感があります。

ここに、価格だけでは説明できないシャガールの魅力があります。

骨董や古美術を見つめていると、作品の価値とは、単に古いことや希少であることだけから生まれるものではないと気づかされます。

一つの作品がどのような時代に生まれ、誰の手を渡り、何を伝えながら現在まで残ってきたのか。

そこに積み重なった時間そのものが、作品を見る体験を豊かなものにしていきます。

シャガールの作品にも、20世紀という激動の時代を生きた一人の画家の記憶と、失われていく故郷への郷愁、そして愛する人への思いが重なっています。

時代がどれほど変わっても、人が誰かと手をつなぎ、宙を舞うような幸福を夢見る感覚まで失われることはありません。

それこそが、シャガールの描く恋人たちが、一世紀以上を経た現在も見る者を惹きつけ続ける理由の一つなのでしょう。

結び:永遠の散歩道

『散歩』の二人は、どこか特定の目的地を目指しているようには見えません。

ただ手をつなぎ、一人は大地に立ち、もう一人はその手を支点にするかのように空へ舞い上がっています。

二人をつないでいるのは、一本の腕だけです。

しかし、その一本の腕が、地上と空をつないでいます。

人生という予測不可能な時間のなかで、人はしばしば目に見えない重力に引かれます。社会の不安や個人的な喪失、変化していく環境が、足かせのように心を引っぱることもあります。

それでも『散歩』を前にすると、まったく別の世界の見方があることに気づかされます。

現実がどれほど重くても、愛する人とつないだ手の先には、重力さえ及ばない場所があるのかもしれない――。

シャガールが実際にそう語ったわけではありません。しかし、彼が描いた二人の姿は、そのような想像を自然に誘います。

空を飛ぶことは奇跡ではなく、愛し合う二人のあいだでは、それさえごく自然な「散歩」の延長である。

そんな幸福な錯覚を、『散歩』は一世紀を経た現在の私たちにも与え続けています。

そして絵画は、美術館に展示される名作だけで生き続けるものではありません。個人の住まいで長く大切にされ、世代を越えて受け継がれてきた一枚にも、それぞれの時間と物語があります。

古美術永澤では、マルク・シャガールをはじめとする国内外の絵画・版画についてもご相談を承っております。作品名や制作年代が分からないもの、額装されたまま長く保管されているものでも、作家や技法、来歴、保存状態などを確認しながら拝見いたします。ご整理やご売却をお考えの作品がございましたら、お気軽にご相談ください。

担当

田川伸一

随筆家

随筆家。「文化史」「比較文化」など文化を通して現代社会にアプローチし、執筆活動を行う。美術に関するエッセイなどを更新中。