伊東深水の生涯|一家離散から美人画の巨匠へ、波乱の人生をたどる

掛け軸買取絵画・版画買取美人画 2026.07.22

お坊ちゃんだったはずが実家没落、一家離散の少年時代

江戸は深川、質屋の息子が没落し絵の腕だけで成り上がる物語

美人画の大家として知られる伊東深水は、明治生まれで大正・昭和期に活躍した浮世絵師、日本画家、そして版画家です。近代の三大美人画家といえば、東の鏑木清方、西の上村松園、そして鏑木の弟子である伊東深水の3人と言われています。
1898年(明治31年)、東京府東京市深川区深川西森下町、現在の江東区森下一丁目の深川神明宮門前に生まれました。家業は質屋で、深川では有数の素封家(そほうか)だったと伝わっています。お坊ちゃん育ちのはずだったのですが、1907年(明治40年)に実家が没落。父親の事業の失敗により、一家離散状態に陥り小学校を3年で中退する羽目になります。働かないと生きていけない状況になった深水は、看板屋に住み込みで奉公することになりました。
翌年、深川猿江町の長屋に家族で住むこととなり、10歳にして深川東大工町の東京印刷株式会社で活字工として働くことになります。家を崩壊させた父親・伊東半三郞はそれでも遊び人を続けていましたが、日本橋新場橋通りの塩物問屋の令嬢出身の母・まさ子が古着や古足袋、古布を拾い集めて夜店で売る苦労を重ね、息子の深水とともに必死に家族を支えました。

印刷会社の活字工から、まさかの美人画家の道へ

多くの画家がその才能を高評価し、ついに美人画の大家・鏑木清方門下の弟子となる

伊東深水「花火」 浴衣姿の女性が夜空の花火を見上げる掛け軸

伊東深水「花火」 浴衣姿の女性が夜空の花火を見上げる掛け軸

深水は活字工の生活の中で画才を認められ、日本画家、版画家の中山秋湖の門人として日本画を習いはじめます。1911年(明治44年)、東京印刷の図案部で顧問をしていた日本画家で東京美術学校で教授も務めた結城素明が深水の画才を高評価します。結城の紹介で、日本画家の鏑木清方に入門することになり、美人画を描く第一歩を踏み出すことになります。
師匠である鏑木からは、生誕地でもあり縁の深い「深川の水」にちなんだ“深水”の号を与えられることになりました。“深”は深川から、“水”は鏑木の名前“清方”の清の水編を取ったものともされています。この当時、13歳ですから、現在なら中学1年生ほどの年齢ですが、その画才は抜きん出ていたのでしょう。多くの画家がこの少年に期待し、苦しい生活ではあったものの、深水は画家としての人生を歩むことになったのです。
当時、実業学校の一種として「実業補習学校」というものがありました。旧学制下で、高等小学校、中学校、高等女学校などの中等教育に進学しない義務教育修了者で、勤労に従事する青少年を対象に実業教育を実施する学校です。現行の学制で見ると、小学校卒で入れる専門学校のような位置づけとなるでしょうか。工業や農業、水産、商業、商船など多くの学校が存在していました。深水はこの学校に入学し、鏑木の下で修行をしながら、昼間は工場で働き、夜は夜学に通い、夜中に絵を描くというハードな生活を続けていたとされています。

この記事を読んでご興味をお持ちの方へ

お手元の骨董品・美術品の価値が気になりましたら、お気軽にご相談ください。
古美術永澤では出張・宅配・持込みにて無料査定を行っております。

14歳の若さで絵画展で入選、プロの画家となる

美人画家としての方向性に迷った時、助言してくれたのは洋画家・岸田劉生

伊東深水「千草の庭」 非常に繊細なタッチで描かれた日本髪の美人掛け軸

伊東深水「千草の庭」 非常に繊細なタッチで描かれた日本髪の美人掛け軸

1912年(大正元年)、第12回巽画会(たつみがかい)展に労働者の父娘を描いた『のどか』が初入選し、深水は画壇の第一線に登場します。まだ14歳、中学2年生の学齢で美術団体主催の絵画展で入選したわけですから、今なら“天才少年現る”と大騒ぎになりそうな事態です。深水は多忙な毎日の中で、新聞の挿絵や雑誌の口絵などの仕事を手掛け、実力を発揮していったのです。
翌年には巽画会1等褒状を獲得、1914年(大正3年)の再興第1回院展(日本美術院再興記念展覧会ともされる、日本画の公募展。現在も毎年秋に東京都美術館で開催され、全国を巡回する国内最大規模の日本画公募展「院展」として継続中)に『桟敷の女』が入選したことで、一気に絵の仕事が増えた深水は、東京印刷を退社します。絵に専念した深水は、1915年(大正4年)、第9回文展(文部省主催の官設公募美術展覧会)に『十六の女』が初入選、さらに名を挙げていきます。
この頃、深水は師匠である鏑木が描く文学的な表現の美人画とは違う自身の画業の方向性に悩み、7つ年上の先輩で洋画家の岸田劉生に悩みを相談したことがあったといいます。岸田からは「難しいことを考えず、黙って、ただ描け。画家はそれ一筋」と言われたとされています。深水はその言葉通りに、自分の絵を追求し、まっすぐに表現していく道を選びました。現代的で、現実味のある深水独自の美人画を目指していくのです。

版元と組んで新版画作品を連発、売れっ子作家に

ビジネスパートナーの渡辺庄三郎との出会い、自身の画塾で弟子を大量育成

伊東深水(いとうしんすい) 美人画 掛け軸 墨の濃淡のみで描かれた日本画の技術極まる美人画

伊東深水(いとうしんすい) 美人画 掛け軸 墨の濃淡のみで描かれた日本画の技術極まる美人画

1916年(大正5年)の6月。浮世絵商で、この頃は版元として「渡辺版画店」の看板を掲げていた渡辺庄三郎が、鏑木の門下生による日本画研究団体「郷土会」が主催した「郷土会第二回展」に訪れました。そこには当然、弟子である深水の肉筆画『みつめる女』も出品されていたのです。渡辺は深水の作品は“売れる木版画”になると直感、鏑木の承諾を得て深水を訪ね、木版画の制作を持ちかけました。深水は渡辺とタッグを組んで新版画作品の制作を開始。同年に、後の代表作ともなる『対鏡』を発表しました。渡辺は深水の作品について「長襦袢の紅、髪の黒、肌の白さがうごめくバック(背景)に調和して娘のうぶな艶姿が表出されている」と評しています。『対鏡』は大ヒットし、深水は自由に版下絵を描き続け、渡辺とともに制作した新版画作品は昭和35年までの長きにわたり続き、作品数は135点ともいわれています。
1919年(大正8年)に結婚し、長男と次男が生まれ、私生活も充実。東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)などに挿絵を描くなどの仕事と自身の作品制作の両方に邁進していきます。1927年(昭和2年)には、大井町に深水画塾を設立しました。後に朗峯画塾(ろうほうがじゅく)となるこの画塾は、29歳の深水が自宅で開いたものでした。同年の第8回帝展(帝国美術院主催の帝国美術展覧会。後の日展)と1929年(昭和4年)の第10回帝展において特選を獲得。日本画壇においてトップの成績を残した深水は、1930年(昭和5年)に大森区池上本町に新たな画室、朗峯画塾を設立。数百人とも言われる多数の弟子を抱えることになります。同年、第1回朗峯画塾展を開催し、毎年のように開催。数多くの門人が名を残しています。画家で美術考証家の岩田専太郎や、日本画家で美人画で名高い立石春美、ほかにも白鳥映雪、徳永春穂など、昭和期にかけて活躍した画家が目白押しです。

美人画の大家が見惚れた“美人”は、後の大女優の母

新橋の“七人衆”のひとりを愛人にした結果、生まれた娘は長じて“朝丘雪路”となった

日本画壇の重鎮として活躍中の1935年(昭和10年)、料亭「勝田」の女将・勝田麻起子との間に雪会(後の女優・朝丘雪路)が誕生します。美人画家が愛した美人、新橋の料亭にいた芸妓が麻起子でした。当時の新橋の花柳界(かりゅうかい)で美貌を競った“七人衆”のひとりに数えられ、“銀座小町”の異名も持っていたといいます。深水は、生まれた雪会を溺愛し、養育係を雇って人力車で学校に送り迎えするほど。思春期に入っても過保護なほど大切に育てました。雪会は中学卒業後、宝塚音楽学校へ進み、月組の娘役として活躍。退団後は映画女優となり、俳優の津川雅彦とはおしどり夫婦として知られることになります。
深水は第二次世界大戦開戦後の1943年(昭和18年)、召集されて海軍報道班員として南方諸島へ赴きます。現地では4000枚ものスケッチを描いたとされています。1945年(昭和20年)3月から1949年(昭和24年)8月まで長野県小諸市に疎開しますが、池上にあった自宅並びに朗峯画塾は東京大空襲で焼失。跡地は現在、区立公園となり、池上梅園として一般開放されています。

晩年まで後進の育成を続け、多くの門人を育て上げた

作品数の多さは桁違い、多くの作品を遺した伊東深水の痛快な成り上がり人生

額装された木版画、「多摩川原の夕」。美人画以外の作品も多い

額装された木版画、「多摩川原の夕」。美人画以外の作品も多い

東京に戻った深水はその後も活躍を続けますが、1949年(昭和24年)、鎌倉に転居します。1950年(昭和25年)には後進育成のために日月社(にちげつしゃ)を設立します。同門である山川秀峰(やまかわしゅうほう)と興した青衿会(せいきんかい)と、児玉希望(こだまきぼう)の画塾である国風会を合併させ、深水自身は顧問として運営に関わりました。個展も多く開催し、精力的に活動を続けていきました。1958年(昭和33年)、日本芸術院会員に推挙され、日本画壇の代表格として君臨したのです。
深水は1972年(昭和47年)、膀胱がんで東京信濃町の慶応病院で死去しました。享年74歳。少年時代は極貧にあえぎながらも、自らの画才でのし上がっていき、社会の下層階級に目を向け、労働者を題材とした作品も描いています。師匠である鏑木とともに美人画を洗練させていき、肖像画や、各時代を反映した風俗画も多く遺しています。とにかく作品数が多いことでも知られ、同様に贋作も多い作家です。木版画も多いため、価値の高い初摺りだけでなく後刷り、復刻版なども数多く、鑑定士泣かせでもあります。
それにしても、一家離散の憂き目から、日本有数の大画家まで上り詰めた成り上がり人生は痛快でもあります。墓所は品川区上大崎の隆崇院にあります。

担当

宮司泰輔

サイトコラム編集者

美術品・骨董品について、初めて勉強する方にも分かりやすいコラムを執筆中です。