加納夏雄 明治の日本美術を代表する“超絶技巧”の金工師として皇室御用達の大名人

古銭・切手買取金工作品買取 2026.07.22

刀の装具が好きな米屋の息子が世界的金工師へ

幼い頃から好きだった刀装具にのめり込み、絵画や漢学も学んで必死に修行した京都時代

加納夏雄-金貨

加納夏雄-金貨

世界から“超絶技巧”と称賛された工芸家が金工師の加納夏雄です。彫金技術が非常に高く、多くの名品を残しました。数多くの賞を受賞し、明治政府の新貨幣の図案彫刻を手掛けるほどの名工でした。幕末から明治に活躍し、日本の彫金界に多くの足跡を残した加納の人生を辿ってみましょう。
文政11年4月14日(1828年5月27日)、京都山城国柳馬場御池通りの米穀商、伏見屋治助の子として生まれた加納は、幼い頃から刀剣の鍔や柄が好きな子供だったと伝えられています。7歳で刀剣商の加納治助の養子となり、12歳になると、彫金師の奥村庄八に弟子入りしました。その翌年には大月派の金工師・池田孝寿の門人となり、象嵌(象り(かたどり)嵌める(はめる)工芸技法)や、繊細で細い線や自由自在の曲線を描く線彫りの技術を磨いたとされています。
14歳になると円山派の絵師だった中島来章の門下に入り、写実を学ぶことになります。中島は花鳥画、特に鯉と鶉を得意とする絵師で、「游鯉図」は東京国立博物館に所蔵されているほどの名人。後の加納のリアルな作風は、この師匠のもとでも培われたのでしょう。他には国学者として知られる谷森種松(善臣)から漢学を学んでおり、教養を身につけていきます。

明治天皇の刀装具を手掛けるほどの名人に成長

刀装具職人として名を挙げるも美術家、工芸家としてさらに研鑽

弘化3年(1846年)、19歳で独立して京都で開業、この時に夏雄と改名しました。安政元年 (1854年)、27歳で江戸へと移り住み、神田に店を開くことになります。刀装具に写実的な技法を用いる独自の作風が人気となりましたが、技術の研鑽は怠らず、さらに頭角を現していくことになります。制作の時期は不明ですが、現在は東京国立博物館に所蔵されている「一輪牡丹図鐔」は加納の刀装具の代表作のひとつでしょう。一輪の牡丹の花が高肉彫で施されており、中心部は美しい金の象嵌となっています。「銘 夏雄製」と記されており、加納の仕事であることが分かります。

一輪牡丹図鐔(いちりんぼたんずつば)出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/F-12940?locale=ja)

一輪牡丹図鐔(いちりんぼたんずつば)
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/F-12940?locale=ja)

鏨(たがね)を斜めに傾けて細く彫っていく片切彫による繊細な仕事は江戸で評判となり、明治維新後の明治2年(1869年)4月に皇室御用を命じられ、刀剣が好きだった明治天皇の太刀飾りを担当することになります。
明治5年(1872年)、奈良の正倉院の修理が行われ、北倉に刀身だけが所蔵されていた8世紀の直刀を明治天皇が気に入り、手元に置くことになりました。その太刀の拵え(外装)を手掛けたのが加納です。翌年に完成したこの刀の外装は「梨地水龍瑞雲文宝剣」と名付けられ、「水龍剣」と号されることになります。片刃の直刀に水龍文金具の繊細な拵えで仕上げた一振りは、明治天皇の愛刀として知られることになります。その後、昭和22年(1947年)、国立博物館(現・東京国立博物館)に移管され、所蔵され、重要文化財指定を受けています。

重要文化財「直刀 無銘(号 水龍剣) 附 梨地水龍瑞雲文宝剣」、1873年、東京国立博物館蔵。出典:ColBase(国立博物館所蔵品統合検索システム)・東京国立博物館(CC BY 4.0)

重要文化財「直刀 無銘(号 水龍剣) 附 梨地水龍瑞雲文宝剣」、1873年、東京国立博物館蔵。 出典:ColBase(国立博物館所蔵品統合検索システム)・東京国立博物館(CC BY 4.0)

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イギリスの技師も絶賛した新貨幣の原型制作

明治の新貨幣のデザイン、原型を担当し、イギリス人を唸らせる

加納は刀剣だけでなく、皇室御用となった年の7月、明治新政府から新貨幣の原型制作を依頼されました。加納は門下生とともに新貨幣12種類の制作を行うこととなりました。原型は加納が肉彫りし、見本として試鋳貨幣が作られました。当初は、この原型を元にイギリスに鋳造を発注、作成する予定だったのですが、イギリス側の技師がその完成度に驚嘆。わざわざ国外に発注する必要はないと進言し、結果的にデザインから型の制作までを加納とその一門が請け負ったのです。旧五円金貨や銀貨には加納のデザインが採用されて使用されています。

加納夏雄_旧5円金貨

加納夏雄_旧5円金貨

明治9年(1876年)、「大礼服並軍人警察官吏等制服着用ノ外帯刀禁止ノ件」、いわゆる“廃刀令”が布告されます。帯刀を禁じられた士族は反発し、その後の西南戦争につながる士族反乱が各地で起きるほどでした。刀装具が作れなくなった金工師たちは、多くが廃業するほどの大打撃を受けます。しかし、確かな技術を満天下に知らしめていた加納への注文は途切れることなく、煙草入れや根付などの生活用品や、額や花瓶などの美術工芸品の作成に舵を切ります。圧倒的な技術力と写実性、さらに皇室や新政府のお墨付きでもある加納の作品は多くが輸出もされ、世界的にその名が知られていくことになります。

出品すれば1位を受賞する圧倒的技術力

内国勧業博覧会を二連覇し明治期を代表する名工として美術会に君臨

明治14年(1881年)には第二回内国勧業博覧会に「鯉魚図額」を出品。見事に妙技一等賞を受賞し、その後宮内省に買い上げられました。鉄地の額装飾に、躍動感のある鯉の図を象嵌や精密な彫金技術で再現している逸品です。鯉を得意とした絵画の師匠である中島来章の影響も色濃いのかもしれません。
加納は明治23年(1890年)の第三回内国勧業博覧会でも「百鶴図花瓶」で再度、妙技一等賞を受賞しています。こちらは一対の銀製花瓶に金や真鍮などの金属素材で無数の鶴を彫金、象嵌しています。一対で百羽の鶴が片切彫で施されており、圧倒的な迫力は明治の彫金の最高峰とされています。こちらも受賞後に宮内省買い上げとなり、明治宮殿の「桐の間」に飾られていました。現在は宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されています。
この同年には東京美術学校彫金科の初代教授に就任、後進の育成も手掛けることとなります。前回のコラムで紹介した彫金家の海野勝珉は翌年に助教授として東京美術学校に入り、加納の指導を受けることになりました。宮内省が運営していた「宮内省工芸員」にも選ばれ、年金が支給され、制作費も負担という厚遇を受けることとなりました。皇室との縁が非常に深かったことが分かります。

明治期最高の金工師としてその生涯を終える

宮内省との仕事は晩年まで続き多くの作品が美術館に所蔵された

明治29年(1896年)には明治天皇の下命により宮内省内に設けられた制作場で東京美術学校の教授らが協力して作られた「沃懸地御紋蒔絵螺鈿太刀拵」(いかけじごもんまきえらでんたちこしらえ)の制作に参加。“明治の三大作”のひとつに数えられています。
加納は明治31年(1898年)に死去。享年69でした。常に皇室との仕事を継続して行い、その格調高い作品群は現在でも高い評価を受け続けています。晩年は完全に巨匠として多くの美術品に関わっており、そのほとんどは美術館に所蔵されています。一般の収集家が入手することは容易ではありませんが、廃刀令前後の刀装具以外の作品などは、現在でも市場に出てくることがあります。明治期を代表する金工師の妙技は色褪せることがありません。

 

担当

宮司泰輔

サイトコラム編集者

美術品・骨董品について、初めて勉強する方にも分かりやすいコラムを執筆中です。