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水戸黄門が奨励した“水戸金工”の申し子
名人と呼ばれた叔父や名工たちに鍛え上げられて多才な技術を吸収
今回ご紹介するのは、彫金家の海野勝珉(うんの しょうみん)です。天保15年5月15日(1844年6月30日)に茨城県の水戸で生まれているので、前回、前々回にも取り上げた高村光雲や石川光明と同時代に生きた芸術家ということになります。この3人は同時期に東京美術学校で教鞭をとっていた教師仲間でもあります。
海野は名人と呼ばれた叔父である初代・海野美盛と、名工として知られた萩谷勝平の双方から金属彫刻を学びました。当時、水戸金工(水戸彫り)は隆盛となりつつありました。江戸時代後期から幕末にかけて、水戸藩九代藩主・徳川斉昭が奨励したため、多くの名工が登場したのです。特に刀剣の外装金具の彫金は人気が高く、鍔(つば。柄と刀身の間に挟む金属板)や縁頭(柄の先と根元に付けて柄木を締める金具)、目貫(柄の両側に付けて握りを良くする小さな金具)、小柄(鞘の外側に差し添える小刀)などがよく作られました。刀を装飾する小さな部品に精密な細工を施しており、その彫刻技術は単品で美術作品として取引されるほどに洗練されていきました。
刀の装飾のために発達していった“水戸金工”
かなり物騒な状態だった当時の水戸で絵画や漢詩を学んで後の作品の礎を得る
そもそも、水戸の金工は“水戸黄門”としてお馴染みの水戸藩二代藩主・徳川光圀が奨励したところから始まりました。戦乱の時代が終わり、安定した世の中で刀は機能性よりも装飾が重視されていきました。江戸中期以降、水戸には金工の流派が多数存在し、将軍家や諸大名への贈答品として重宝されており、参勤交代で地元の藩へ帰る際には江戸土産として喜ばれたといいます。
このように水戸の彫金が発展していくなか、海野も懸命に学んで名工への道を辿っていきます。幕末期の水戸は尊王攘夷派の天狗党が勢力を拡大していました。安政5年、安政の大獄から、桜田門外の変などの政変に関係し、元治元年3月27日には筑波山挙兵からの内乱騒動を巻き起こすなどしていました。国を揺るがす大騒動の最中も、海野は安達梅渓に絵を、武庄次郎に漢詩も学ぶなど、着々と教養を身に着けていきました。これらの地道な努力はその後の作品に大きな影響を与えることになります。
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彫金小物を“芸術品”に昇華させていく
明治に入り上京、“勝珉”と名乗り写実性の高い作品で頭角を現す

写実性に溢れた「神馬金彩置物」。金彩による仕上げが美しい。
明治初年に上京した海野は、この頃から“勝珉”と名乗るようになります。師匠である萩谷勝平の「勝」と江戸時代の名彫金家・横谷宗珉の「珉」を合わせたとされていますが、諸説あるようです。明治9年(1876年)から駒込千駄木町で工房を開業します。彫金職人としての活躍が始まりました。先に述べたように、水戸の彫金は刀の装飾品を作るために発達したものでしたが、海野が開業した頃には明治政府による廃刀令により、刀装具の作成ができなくなっていきました。多くの職人は貿易用の小物や花瓶、アクセサリーなどを作って糊口をしのいでいました。海野も香炉や置物、煙草入れの金具や指輪、香箱など様々な工芸品を制作していましたが、あくまでも美術品を目指して制作を続けました。金属工芸を芸術として作り上げていく道を選んだのです。
小刀のような鑿(のみ)を用いて、細かい線を彫金していく片切彫を駆使し、象嵌(ぞうがん)の技術も使用。「象って嵌める」(かたどってはめる)この技術は、金や銅などの金属を削り、そこに金や銀を打ち込んで模様を描いていきます。様々な色彩を表現することができるため、海野は金属面に花鳥画を施すことを得意としていました。絵画の勉強を積んでいたこともあり、写実性の高い作品を生み出しており、美しく色彩豊か、雅で優雅な作風で頭角を現していきます。
内国勧業博覧会3連続受賞で名工へ
「銅色絵蘭陵王置物」を出品 妙技一等賞受賞で大ブレイク

細かい彫金技術で波涛文様が全面に施された銀製花瓶一対。
明治10年(1877年)第1回内国勧業博覧会と明治14年(1881年)第2回内国勧業博覧会では連続して褒状を獲得。明治23年(1890年)、第3回同博覧会で「蘭陵王」を出品し、妙技一等賞を獲得しました。正式名称は「銅色絵蘭陵王置物」(どういろえらんりょうおうおきもの)、舞楽「蘭陵王」を舞う演者の姿を模した置物です。
銅を地金として用い、様々な色金を使って彫金を加えています。立体的な文様も特徴で、金属の輪郭線から内側をわずかに彫り下げた文様で陰影をつける肉合(ししあい)彫りで銅地金に凹凸をつけます。そこに蝋(ろう)材を塗って色金の板を焼き付けて鑞付けする色絵技法が用いられていました。複数の複雑なパーツを組み合わせて、見事な作品に仕上げています。現在は重要文化財として皇居三の丸尚蔵館に所蔵されています。
受賞の翌年からは東京美術学校(現・東京芸術大学)の助教授に就任します。当時、教授を務めており、宮内省の御用として明治天皇の太刀飾りを担当した金工師・加納夏雄に師事し、さらに腕を磨いていくことになります。明治27年(1894年)には教授に就任し、翌年の第4回内国勧業博覧会からは審査員を務めることになります。名実ともに彫金の第一人者となりました。
パリ万博出品、宮内庁注文品など名品連発
明治期の金工の最高水準とも 謳われる名品を連発する円熟期

美しい色合いの浮き彫りで花鳥図が描かれている壺
その後も多くの作品を作り続け、明治33年(1900年)のパリ万博に「太平楽置物」を出品。大礼の饗宴などで舞われる「太平楽」の豪華絢爛な衣装を金象嵌などを用いて作り上げています。兜から衣装まで非常に細かく再現されており、“明治期金工の最高水準”とも呼ばれる傑作です。これも重要文化財として皇居三の丸尚蔵館に所蔵される名品です。
明治36年(1903年)には宮内省が東京美術学校に図案を依頼後、制作に11年かかったという「菊蒔絵螺鈿棚」(きくまきえれでんだな)の彫刻を手掛けます。高蒔絵と螺鈿で菊花と小鳥の文様がびっしり、棚板の裏側にまで施されている大作です。日本の漆工芸界の草分けと呼ばれる六角紫水が図を考案して下絵を手掛け、蒔絵師の川之邊一朝が蒔絵を担当。海野は金具の彫刻を担当しました。東京美術学校の教授陣が寄って集って作成した傑作は、もちろん重要文化財。菊蒔絵螺鈿書棚製作図45枚も重要文化財に附指定(つけたりしてい)となり、皇居三の丸尚蔵館に所蔵されています。
多くの叙勲と後進を育てた“明治の名工”
東京美術学校だけでなく多くの研究団体でも指導して後進育成
日本の彫金界をリードし続けた海野は、明治29年(1896年)には師匠の加納夏雄や高村光雲と同じく帝室技芸員に任命されました。明治38年(1905年)に勲六等瑞宝章受章。大正4年(1915年)に72歳で逝去後は、従四位に叙され、勲四等を賜りました。
職人としてだけでなく、美術家、芸術家であり教育者でもあった海野。龍池会、日本美術協会、日本金工協会などの研究団体でも指導者的役割を果たし、彫金界の後進育成でも大きな成果を遺しました。
海野の墓は、高村光雲など多くの芸術家も眠る豊島区駒込の染井霊園にあります。
担当
宮司泰輔
サイトコラム編集者
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