
藤田嗣治「二人の子供」
目次
エコール・ド・パリの寵児と「子供」という画題
1920年代のパリ・モンパルナス。狂騒の時代の中心で、お調子者のようなおかっぱ頭に丸眼鏡、耳にはイヤリングを揺らし、夜な夜な社交界のスターとして浮名を流した日本人がいた。藤田嗣治――のちにフランスに帰化し、レオナール・フジタとなる男である。彼は東洋の墨と西洋の油彩を融合させた独自の「乳白色の肌」を編み出し、ピカソやモディリアーニら異才がひしめくエコール・ド・パリの頂点へと駆け上がった。
フジタの絵画といえば、滑らかな裸婦や、どこか人間めいた風刺を帯びた猫を思い浮かべる人が多いだろう。しかし、彼の生涯を通じてキャンバスに最も深く、そして偏執的なまでに刻まれ続けたもう一つの主役がいる。それが「子供」である。
藤田は生涯で五度の結婚を経験しながらも、一人も実子を持たなかった。にもかかわらず、彼の残した作品群には、あどけなくもどこか神秘的な子供たちの姿があふれている。なかでも、二人の子供が並び立つ、あるいは寄り添う構図は、彼の画業のあらゆる季節に繰り返し現れる重要なモチーフであった。血のつながった我が子を持たなかった異国の絵描きが、なぜこれほどまでに「二人の子供」を描き続けなければならなかったのか。その謎を紐解くことは、藤田嗣治という芸術家が歩んだ波乱の生涯と、その魂の最も脆く清らかな核心に触れることに他ならない。
波乱の生涯と、日本への絶望、あるいはフランスへの帰化
藤田の人生は、常に二つの祖国、二つの文化の間で激しく揺れ動く運命にあった。1886年に東京の裕福なエリート家系に生まれた彼は、東京美術学校(現・東京藝術大学)で黒田清輝らに学ぶが、当時の日本の古臭いアカデミズムに退屈し、1913年に単身フランスへと渡る。パリでの暮らしは困窮を極めたが、第一次世界大戦の戦火をくぐり抜けた先で、彼は前述の「乳白色の肌」によって時代の寵児となった。
しかし、栄光の季節は長くは続かなかった。世界恐慌の足音が響くなか、藤田はパリを離れて南米を旅し、やがて昭和の戦局が深刻化する日本へと帰国する。そこで待っていたのは、国家という巨大な渦だった。軍部からの要請、そして一人の日本人としてのナショナリズムから、藤田は『アッツ島玉砕』をはじめとする数々の「作戦記録画(戦争画)」を制作することになる。凄惨な戦場を圧倒的なリアリズムと古典絵画のような崇高さを交えて描いたこれらの絵は、皮肉にも藤田の画力の凄まじさを証明するものとなった。
だが、敗戦を迎えた日本美術界は、藤田にすべての戦争責任を押し付けるかのように、彼を「戦犯画家」として激しく糾弾した。かつて彼を熱狂的に迎えた祖国の手のひらを返すような態度に、藤田の心は深く傷つき、へし折られた。「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」という言葉を遺し、1949年、彼は再び羽田空港から日本を飛び立つ。二度と日本の土を踏まないという、固い決意とともに。
ニューヨークを経て再び戻ったパリは、かつての狂騒を失っていたが、藤田を温かく迎え入れた。1955年にフランス国籍を取得し、1959年にはカトリックの洗礼を受けて神の拠り所を求めた彼は、自らを「レオナール・フジタ」と名乗るようになる。日本という母体を喪失した芸術家が、フランスという異郷の地で、自らの魂を新しく生まれ変わらせた瞬間であった。
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カンヴァスの中の我が子――「二人の子供」が意味するもの
実生活において孤独な漂流者であった藤田にとって、絵を描くこと、とりわけ子供を描くことは、単なる芸術的探求を超えた精神の救済であった。晩年の藤田は、自らの子供の絵について、友人への書簡の中で次のような極めて有名な言葉を遺している。
「私の数多い子供の絵の小児は皆私の創作で、モデルを写生したものではない。(中略)私一人だけの子供だ。私には子供がない。私の画の子供が私の息子なり娘なりで一番愛したい子供だ」ここに、彼の創作への想いが告白されている。藤田にとって、キャンバスの上に絵筆で生み出される子供たちは、現実の写生ではなく、彼の内なる宇宙から誕生した「本物の我が子」であったのだ。
藤田が描く子供たちには、一貫した特異な瑞々しさと不気味さが同居している。彼らの顔はころんと丸く、額は広く、そして何よりも、すべてを見透かすような大人びた大きな瞳と、秘密を噛み殺したようにきゅっと結ばれた口元が印象的だ。彼らが東洋人なのか西洋人なのか、その境界は曖昧である。それらはまさに、日本とフランスという二つの世界の狭間で生きた藤田自身の精神的遺伝子を受け継いだ子供たちであった。
その中でも、「二人」という数字は藤田にとって特別な意味を帯びているようにも思われる。1929年、彼がパリの画壇で確固たる地位を築いていた時期に制作された版画集『子供十態』のなかに、傑作として名高い『二人の少年』がある。また、油彩画でも『子供二人』や、晩年のリトグラフに見られる『二人の少女』など、二人の人物が対になって画面に収まる作品が目立つ。
なぜ、一人ではなく「二人」なのか。
そこには藤田自身の「引き裂かれた自己」の投影を見て取らざるを得ない。一人は日本にしがみつき、裏切られた「嗣治(つぐはる)」であり、もう一人はフランスの神に抱かれ、新しく生を授かった「レオナール」である。あるいは、一人はかつて故郷で過ごした純真な少年の日の記憶であり、もう一人は異郷の地で冷徹に現実を見つめ続けた老画家の影かもしれない。
画面の中で、二人の子供たちは大抵、密に身体を寄せ合っているか、あるいはわずかなディスタンスを保ちながら、同じ方向、すなわち私たち鑑賞者の側をじっと見つめている。彼らは決して子供らしい無邪気さで互いにふざけ合ったりはしない。そこにあるのは、言葉を必要としない沈黙の連帯である。孤独を知り尽くした藤田は、キャンバスの中で我が子を一人きりにすることを恐れたのではないか。世界がどれほど冷酷で、国家がどれほど自分を裏切ろうとも、画面の中の「二人」だけは、互いの存在を保証し合い、永遠に孤立することはない。藤田は二人の子供を描くことで、自分自身の傷ついた魂を対話させ、慰め合っていたのである。
永遠のゆりかごとしての宗教画と、キャンバスに遺された愛
人生の終着駅において、藤田のこの子供たちへのまなざしは、さらに神聖な領域へと昇華されていく。1960年代、彼は生涯の集大成として、フランスのランスに「平和の聖母礼拝堂(通称フジタ礼拝堂)」を自らの設計とフレスコ画によって建築した。80歳近い老体でありながら、高所に足場を組み、身命を傾けて描き上げた壁画の中には、聖母マリアに抱かれる幼子キリストをはじめ、無数の子供たちの姿が描かれている。
かつて社交界で「乳白色の肌」の裸婦を描き、戦場画で血と泥を描いた画家は、最後に子供たちの無垢な魂を描くことで、神の世界へと足を踏み入れた。そこにある子供たちは、もはや藤田個人の哀愁や分身であることを超えて、人類全体の受難と救済を象徴する聖なる存在となっていた。
藤田嗣治、またの名をレオナール・フジタ。彼がキャンバスという四角い宇宙に遺した「二人の子供」は、現世のいかなる戸籍にも登録されていない。しかしそれらは、彼が流した孤独の涙と、芸術への凄絶な執念、そして何よりも、この世でついに注ぐ先を見出せなかった父性としての愛が結晶化したものである。
絵筆を握る指先から紡ぎ出された繊細な墨の線は、我が子をそっと包み込む産着の糸であった。藤田にとって絵を描くこととは、この世に生まれ得なかった二人の我が子を、キャンバスという色褪せることのない不滅のゆりかごに抱き上げ、永遠の愛を歌いかける行為そのものだったのである。彼らが今もなお、美術館の薄暗がりのなかで大きな瞳を開き、私たちをじっと見つめ返しているとき、私たちはそこに、一人の偉大な画家が命を賭して守り抜いた、最も純粋な愛の形を見るのである。
担当
田川伸一
随筆家
随筆家。「文化史」「比較文化」など文化を通して現代社会にアプローチし、執筆活動を行う。美術に関するエッセイなどを更新中。
