
孫文の書 扁額「至言救時局」
アジアの夜明けを夢見た二人の邂逅
歴史という巨大なうねりの中には、時として国境や民族、言語の壁を軽々と飛び越え、同じ理想に命を燃やした「魂の双子」とも呼ぶべき人物たちが存在する。明治という、日本が急速に近代化へひた走る一方で、アジア諸国が欧米列強の脅威に晒されていた時代。熊本の地から世界を睨み据えた一人の男がいた。宮崎滔天(みやざきとうてん)である。
滔天は単なる政治活動家でも、大アジア主義のイデオローグでもなかった。彼は、自らの全存在を賭けて「他者の解放」を希求した、純粋にして苛烈な革命詩人であった。その滔天が、生涯をかけて寄り添い、文字通り支えた男こそ、中国近代革命の父、孫文(号は孫中山)である。
二人の出会いは、混迷を極める東アジアの夜明け前を照らす一筋の光明であった。滔天が孫文に注いだ情熱は、単なる利害関係や政治的打算に基づく同盟ではない。それは、互いの胸中に宿る「至誠」を認め合った瞬間に始まった、魂の交感であった。本稿では、滔天がなぜそれほどまでに孫文という男を支え、その革命に己の命を捧げ尽くしたのか、その絆の深層に迫っていきたい。
落魄の志士と亡命の革命家
宮崎滔天が孫文と初めてまみえたのは、明治30年(1897年)9月のこと、不夜城と呼ばれた横浜の地であった。当時の滔天は、混迷する自由民権運動の挫折を目の当たりにし、アジアの復興によってしか日本の真の自立もあり得ないという「大アジア主義」の混迷の中に身を置いていた。彼はフィリピンの独立運動などにも関わろうとしたがことごとく失敗し、まさに落魄の志士として、精神的な飢餓感の中にあった。
一方の孫文は、広州での最初の挙兵に失敗し、清朝政府から莫大な懸賞金をかけられた一級の亡命犯であった。髪を切り、洋服をまとい、変装して日本へ亡命してきた孫文の姿は、一見すると革命家というよりは、穏やかな知識人のようであったという。
しかし、滔天が孫文と夜を徹して語り合ったとき、その眼前に現れたのは、これまでに見たこともない「巨星」の姿であった。孫文は、清朝の打倒と共和制の樹立(のちの三民主義の萌芽)を、驚くべき理路整然とした口調で、しかし胸の奥底から湧き上がるような熱情を込めて語った。
滔天はのちに、自伝的著作『三十三年の夢』の中で、この時の衝撃を鮮烈に記録している。滔天の目に映った孫文は、東洋のルソーにも、ワシントンにも比すべき人物であった。滔天は、自らの内にあった「東洋を救う」という大望が、自分自身の手によってではなく、この眼前の小柄な中国人の手によってこそ成し遂げられるべきだと直感した。この直感こそが、滔天が孫文に対して抱いた、生涯変わらぬ敬慕の念の原点である。それは、偉大な理想を体現する人間に対する、無条件の心服であった。
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浪曲の唸りと革命の資金
孫文という希望を見出した滔天のアクションは、常人の理解を超えるものであった。彼は、孫文の存在と彼の目指す革命の正当性を日本社会に広く知らしめるため、ペンを執った。その思いは、のちに著した自伝『三十三年の夢』にも色濃く表れている。この書物は、それまで日本で「正体不明の謀反人」と見なされていた孫文を、一躍「アジアの英雄」へと押し上げる起爆剤となった。
しかし、革命には言葉だけでなく、莫大な資金が必要だった。孫文の率いる革命組織(のちの中国同盟会)は、常に資金難にあえいでいた。日本政府は清朝との外交関係を慮り、孫文らを監視し、時に冷遇した。貧しい志士であった滔天に、金を工面する伝手などどこにもなかった。
ここで滔天が選んだ道が、彼の「狂気」とも言える純粋さを物語っている。彼はなんと、寄席の舞台に立つ「浪曲師」となったのである。名を「桃中軒牛右衛門(とうちゅうけんうしえもん)」と改め、着物をまとい、三味線の音に合わせて声を張り上げた。
明治の日本において、知識人や志士が芸人になることは、身分を落とすことを意味した。周囲からは嘲笑され、狂人扱いもされた。しかし、滔天にとって、自らのプライドなど、孫文の夢、すなわち中国の革命に比べれば塵芥に等しかった。彼は全国の盛り場を巡り、声を枯らして浪曲を唸り、そこで得たわずかな木戸銭(入場料)を、そのまま孫文の革命資金へと注ぎ込んだのである。
滔天の浪曲は、単なる芸ではなかった。そこには、虐げられたアジアの民衆への憤りと、孫文という男への烈しい敬慕の念が込められていた。観客はその凄まじい気迫に圧倒された。芸を売り、魂を削ってまで他国の、それもまだ成るかどうかも分からない革命を支えようとした男。この滔天の姿に、孫文が深く胸を打たれないはずがなかった。二人の関係は、支援者と被支援者という枠組みを超え、互いの命を削り合うような共同闘争へと昇華していった。
裏切りと混迷の中の「信」
歳月は流れ、明治44年(1911年)、ついに武昌での挙兵を契機として「辛亥革命」が勃発する。滔天の夢見たアジアの夜明けが、ついに現実のものとなるかに見えた。孫文は帰国し、中華民国の臨時大総統に就任する。滔天もまた、我が事のように歓喜し、南京へと駆けつけ、孫文の傍らに立った。
しかし、現実は甘くなかった。誕生したばかりの共和国は、強大な軍事力を持つ袁世凱(えんせいがい)との政治的妥協を余儀なくされ、孫文はわずか数ヶ月で大総統の座を譲り渡すことになる。さらに、日本国内のアジアン・ナショナリストたちの多くは、中国の革命を「日本の権益拡大」のために利用しようとする本音を露わにし始めた。かつて孫文を熱狂的に迎えた日本の政財界は、潮が引くように彼から離れていった。
裏切りと混迷。孫文の周囲には、再び孤独な影が差し始める。革命派内部でも足並みは乱れ、孫文の理想主義を「現実離れしている」と批判する声も上がった。
だが、宮崎滔天だけは違った。彼は、孫文が権力の座にあろうが、再び亡命の身に落とされようが、その態度をいささかも変えなかった。滔天にとっての孫文は、権力者としての孫文ではなく、横浜の宿で「アジアの覚醒」を熱く語った、あの無一文の革命家その人だったからである。
滔天が貫いたのは、絶対的な「信」であった。彼は、日本政府の対中政策(のちの二十一カ条の要求など)に激しい怒りを覚え、自国の近視眼的な帝国主義を恥じた。周囲がどれほど孫文を非難し、見捨てようとも、滔天は「孫文の失敗は、彼を真に支えきれなかった我々全体の責任であり、彼の理想そのものが汚れたわけではない」と信じ続けた。この、時代や状況に左右されない頑ななまでの忠誠心こそ、滔天が孫文に捧げた敬慕の念の最も美しい結実であった。
時を超えて響く、未完の革命詩
大正11年(1922年)、宮崎滔天は51歳の若さでその波乱に満ちた生涯を閉じた。革命の完全な成就を見届けることなく、そして日中関係に暗い影が差し始める時代にあって早すぎる死であった。
滔天の訃報に接した孫文の悲しみは、言葉に尽くせるものではなかった。孫文は、滔天を「日本における最も忠実なる同志」と呼び、その死を深く悼んだ。そしてその孫文もまた、わずか3年後の大正14年(1925年)、「革命未だ成らず」の有名な言葉を遺して、この世を去ることになる。
二人の歩んだ軌跡を振り返るとき、そこにはある種の哀愁と、未完の挫折感が漂っているかもしれない。彼らが夢見た「対等で、自由なアジアの連帯」は、その後の歴史において、日中の凄惨な戦争という最悪の形で踏みにじられることになったからである。
しかし、彼らの遺した足跡は、決して無駄ではなかった。宮崎滔天が孫文を愛し、その革命を支えたという事実は、近代日中関係の歴史が、単なる侵略と抵抗、国家間の対立だけで埋め尽くされているわけではないことを証明している。その底流には、国家の枠組みを飛び越え、一人の人間として、一つの理想として、互いを熱烈に信じ合い、国境を越えた人々の連帯の記憶が厳然として存在しているのだ。
担当
田川伸一
随筆家
随筆家。「文化史」「比較文化」など文化を通して現代社会にアプローチし、執筆活動を行う。美術に関するエッセイなどを更新中。
