平山郁夫の生涯|原爆被爆を乗り越え、シルクロードを描き続けた日本画家

絵画・版画買取 2026.08.05
平山郁夫

平山郁夫

病弱だった幼年時代、絵を描くことが大好きだった

寺社の多い島で絵を描きながら育つも、子供の頃は絵描きになる気はなかった

平山郁夫は近代日本を代表する日本画家であり、教育者でもあります。文化勲章受章者であり、東京藝術大学学長も務めました。華々しい経歴を持つ日本美術界の巨匠であり、文化の保存や後進の育成に邁進した人物は、一体どんな生涯を送ったのでしょうか。
1930年(昭和5年)6月15日、広島県豊田郡瀬戸田町に生まれた平山は、幼少の頃から絵を描くことが好きな子供でした。戦時中も絵さえ描いていれば空腹を忘れることができたといいます。現在、広島県尾道市瀬戸田町沢にある平山郁夫美術館では、幼少期から10代に平山が描いた絵を見ることができます。非常に達者な筆致で描かれていますが、当時は画家になろうという意識は薄かったと振り返っています。
1943年(昭和18年)、旧制広島修道中学(現在の私立修道中学校・高等学校)に入学します。1945年(昭和20年)、広島市内の陸軍兵器補給廠(現在の広島大学医学部)に勤労動員されていた最中の8月6日、広島市に原子爆弾が投下されました。平山は九死に一生を得ますが、廃墟と化した広島をさまよう中で被曝してしまいます。推定被曝者数42万人の中のひとりとなりました。

広島で原爆投下に遭遇し、被曝してしまう

原爆投下の瞬間、様々な色の爆炎が渦を巻くのを見上げた

平山は2005年に放送されたNHKのドキュメンタリー『あの日 昭和20年の記憶』で当時を語っています。

「朝の8時に点呼を受けて、作業場に数人で出かけました。作業を開始しようと仲間3人で準備を始めたところで、南の方からB29が3機編隊で広島市内に侵入してきたわけです。そしてパッパッパッと落下傘を3個、投下したんです。開いてゆらりゆらりと落ちてくるので、作業小屋にいた友達ふたりに『変なものが落ちてくるから、君たち外に出ろ』と最後まで言い終わらないうちに、突然パアーンと物凄い光が周辺に立ち込めて。ちょうど私の眼の前で、昔の写真機のマグネシウムのフラッシュを炊いたみたいな感じでしたね。暗い部屋の中が、黄色い光で充満して、目と耳を本能的に押さえて、床にうずくまったわけです」

空を見ると、あの有名なきのこ雲が上がっていたと言います。

「噴煙が巻き上がって、普賢岳の火山が爆発した瞬間のようでしたね。噴煙は真っ赤と真っ黄色と、真っ白と真っ黒と紫の大きな煙が渦を巻きながらどんどん立ち上っていく。何でその小さな小屋が助かったかって言いますと、すぐ後ろに弾薬箱を作る大きな原木が山積みにしてあったんですよ。そこに爆風と熱線が来たので、守るシェルターの役目をしたんでしょうね」

兵器廠(へいきしょう)の将校に、我々中学生はどうするかを聞くと、これは新型爆弾だから自分の命は自分で守れと言われたそうです。勝手に逃げていいのか確認すると、「解散する」と言われたので、どこかに逃げなければと広島市内をさまようことになったと言います。

「街のなかには傷ついたり火傷をした人、避難民の群れが移動しているんですね。みんなショックで呆然として口もきかないんですよ。生きてる人間もガラスが突き刺さってたり、火傷で皮膚が垂れ下がったり、そういう人は早く亡くなったみたいですけど…。背中に子供をおぶった人がいて、その子供は明らかに死んでいるんですけど、気が付かないで黙々と歩いている」

平山は黄金山という山まで逃げて、斜面で座って燃える広島市街を見つめ続けたと言います。

 

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彫金師だった大伯父のすすめで東京美術学校へ

前田青邨の助手として研鑽を積み、院展入選で日本画壇に登場する

平山郁夫 「法隆寺 夢殿への道」

平山郁夫 「法隆寺 夢殿への道」

法隆寺の夢殿へ続く道を描いたスケッチ。色彩が美しい。

原爆投下時の壮絶な経験は、後に「文化財赤十字」活動などを行う原動力、原点となったようです。その後は実家に近い旧制忠海中学(現在の広島県立忠海高等学校)に転校して学生生活を送ります。この頃も絵は描き続けており、卒業後、彫金家だった大伯父(母方の祖母の兄)の清水南山から東京美術学校(現在の東京藝術大学)への進学を強く勧められます。
無事に入学した平山は、小林古径、安田靫彦らの教授陣に師事することとなります。
平山は1952年(昭和27年)に卒業後も学校に残り、新任教授の前田青邨の助手として勤務しました。前田は日本画の大家として知られ、歴史画や肖像画、花鳥画など何でも描ける、後の文化勲章受章者です。特に武者絵の緻密な描写には定評がありました。後に法隆寺金堂壁画の再現模写や、高松塚古墳壁画の模写などの文化財保護事業に平山とともに関わった人物です。助手を務めながら研鑽を続け、1952年(昭和27年)の院展(第37回再興日本美術院展覧会)に『家路』を出品しますが落選。自信を持って出した作品だったために落胆しますが、後に画家として得難い、ありがたい経験だったと振り返っています。
翌年の院展に前年と同じテーマ、構図の『家路』を再び出品して見事入選を勝ち取ります。その後も入選を続け、日本画の世界で名前を成していきます。1955年(昭和30年)には松山美知子と結婚、一男一女をもうけることになります。

原爆後遺症に苦しみながらも世界を巡り描き続ける

ヨーロッパ各国やシルクロードを旅し続け、スケッチを重ねた日々

平山郁夫「ブルーモスクの夜」

平山郁夫「ブルーモスクの夜」

1976年に描かれた傑作。イスタンブールの夜景が美しい。

しかし、1959年(昭和34年)頃、原爆後遺症(白血球減少)の症状が現れ始めます。白血球が半減し、極度の貧血が続く日々。一時は死をも覚悟するほどの症状に悩まされながら、玄奘三蔵をテーマにした『仏教伝来』を描き上げ、第44回再興日本美術院展に出品、入選を果たします。白い馬に乗った玄奘三蔵の姿を幻想的に描いたこの作品は非常に高く評価され、更に名声を高めていくことになります。
1962年(昭和37年)には第1回ユネスコ・フェローシップにより、6ヶ月ものヨーロッパ留学も果たします。イタリアやフランスなどのヨーロッパ諸国を巡り、西洋美術に触れます。そして1966年(昭和41年)に東京芸大の遺跡調査団に参加し、トルコを訪れたことから、後にライフワークとなるシルクロードを描き始めます。1968年(昭和43年)からはヒマラヤ山脈、パミール高原、タクラマカン砂漠などシルクロード沿いの各所を訪ね歩き、取り入れていきました。取材旅行は中近東や中央アジア、中国やインドなど160回以上、その間にスケッチブック200冊、4000点を超えるスケッチをしたと伝えられています。
1973年(昭和48年)、43歳で東京藝術大学美術学部教授に就任、後進育成に励みながら、積極的に国外にも進出していきます。1979年(昭和54年)には北京の故宮博物院で「平山郁夫 日本画展」が開催され、中国を訪れます。北京から河西回廊を経て敦煌まで足を伸ばした平山は、敦煌文物研究所の所長と交流し、石窟でのスケッチを数多く行いました。ここで歴史ある石窟の保護活動に感銘を受け、後の文化財保護への思いが芽生えたとしています。
1972年(昭和47年)からは中央公論社の月刊文芸雑誌「海」の表紙絵を担当。シルクロードの風景や古美術を描き、1975年(昭和50年)頃からは群青地に金泥なども用いて四季折々の花鳥風月を描きました。1984年(昭和59年)の休刊まで担当していました。

東京藝大学長に就任、様々な要職に就き大活躍

文化勲章を受賞し、自身の名を冠した美術館がふたつも開館と画壇のトップに

平山郁夫「天龍川・南宮峡」

平山郁夫「天龍川・南宮峡」

天竜川の南宮峡を描いた風景画。清流の流れと山の対比が見事。

1976年(昭和51年)にはシルクロードを描いたシリーズが評価され、第7回日本芸術大賞を受賞。この時期には師匠の前田青邨らと共に文化財保護事業にも邁進していきます。
1988年(昭和63年)にはユネスコ親善大使に就任し、さらに文化財保護活動を本格化していきます。北京訪問以来関係の深い中国と北朝鮮を仲介し、高句麗前期の都城と古墳群の世界遺産同時登録に寄与するなど活躍。1989年(昭和64年、平成元年)には東京藝術大学学長に就任しました。
その後は世界平和アピール七人委員会委員や日中友好協会会長、文化財保護振興財団理事長(現在の文化財保護・芸術研究助成財団)、日本育英会会長などさまざまな要職につき、まさに日本画壇の首領ともいうべき立場となっていきました。
1996年(平成8年)からは日本美術院理事長を務め、1998年(平成10年)に文化勲章を受賞します。1997年(平成9年)に自身の故郷である広島の瀬戸田町に平山郁夫美術館が開館。幼少期からの作品群などが所蔵されています。さらに2004年(平成16年)には山梨県北杜市に平山郁夫シルクロード美術館が開館、シルクロード研究の結果、各所から贈られた美術品や発掘品、シルクロードをテーマにした多くの作品が所蔵されています。

世界の文化遺産を保護する活動は晩年まで続いた

日本だけでなく世界の遺跡や文化財、美術品を後世に残そうと奮闘し続けた

平山郁夫 「黎明の富士」 リトグラフ

平山郁夫 「黎明の富士」 リトグラフ

富士山を堂々と描いたリトグラフ。比較的手に入れやすい。

平山はカンボジアのアンコールワット遺跡や中国の敦煌遺跡、南京城壁、また国外美術館所蔵の日本古美術修復援助など、世界的な文化遺産保護を活発化していきます。「文化財赤十字構想」を提唱し、私財を投じて遺跡や文化財を後世に残そうと活動を続けていきました。
1980年(昭和55年)から奈良の薬師寺、玄奘三蔵院伽藍にある「大唐西域壁画」を描き始め、2000年(平成12年)12月31日に完成、奉納しました。高さ2.15m、幅50mの大壁画で、まさにライフワークともいえる大作です。
2000年代に入っても、東京藝術大学学長に再就任し、2005年(平成17年)まで務め、学長退任後は東京国立博物館特任館長に就任するなど日本画壇のトップを走り続けました。2009年(平成21年)に、脳梗塞のため東京都内の病院で死去。79歳でした。
画家として頂点を極め、多くの文化財保護事業を行い、社会的に大きな影響を与えた傑物であったのは間違いありません。その作品数も膨大で、市場に出ればその価値は非常に高く評価されます。2010年代には贋作(偽版画)が多く出回ったこともあり、注意も必要ですが、作品の価値自体が下がったわけではありません。前述した平山の名を冠した美術館を訪れれば、その素晴らしい作品群に圧倒されることは間違いありません。

担当

宮司泰輔

サイトコラム編集者

美術品・骨董品について、初めて勉強する方にも分かりやすいコラムを執筆中です。