民藝とは?民藝運動の作家たち

陶磁器バーナード・リーチ富本憲吉柳宗悦棟方志功河井寛次郎濱田庄司芹沢銈介黒田辰秋 2023.12.25

民藝

民藝とは?

今では一般的になった「民藝」という言葉は、1920年代に思想家・宗教哲学者である柳宗悦が作った造語(民主的工藝>民藝)です。
当時の工芸界は、華美な装飾を施した観賞用の作品が主流でした。
その中で、柳宗悦は伝統的な生活のための工芸品に美を認め、用に則した「用の美」「健全な美」の観方と価値観を積極的に世に広めました。

柳宗悦らは、日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工など、無名の職人による日用雑器などを、現地に赴き調査し、厳しい審美眼を通して集めました。また、朝鮮王朝時代の美術工芸品の収集にも熱心であったことも知られています。

「日本民藝美術館設立趣意書」は、柳宗悦、富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司の連名で発表されました。
その他に彼らと行動をともにした作家には、バーナード・リーチ、その後同人となった板画家の棟方志功、染色家の芹沢けい介、木工家の黒田辰秋らがいます。

民藝は本来、無名の職人が作った生活に根ざした日用品です。
しかし、以下にご紹介する濱田庄司、河井寛次郎を始めとした民藝運動の作家は、時を経ていずれも人間国宝級の作家となりました。彼らが亡くなって数十年が経った今でも、その作品はオークションで高価な価格で取引されています。

柳宗悦の元に集まり、民藝の考えに賛同し、民藝運動を推進した作家たちは、お互いに切磋琢磨しながら自身の作品を昇華させました。同時期にこれだけ多くの優れた作家を排出した民藝運動は、美術史的にも稀な活動であり集団でした。

 

民藝運動の作家

柳宗悦 やなぎむねよし (1889-1961)

柳宗悦思想家、哲学者として大正から昭和中期に活躍した。民藝運動の創始者。
学習院高等科在学中に雑誌『白樺』の創刊に関わる。早くから美術や哲学の知識を深め、朝鮮半島を訪れた際に朝鮮陶磁器と出会い、普通の道具や陶磁器などの工芸の魅力に目覚めた。大衆から生まれた美しい品々を「民藝」と名付け、これを広く紹介する民藝運動を展開した。
息子はインダストリアルデザイナーとして近代日本のデザインの興隆を支えた柳宗理。

1926年に「日本民藝美術館設立趣意書」を発表して、民藝運動の創始者となる。
1936年に東京駒場の自宅隣に1万7千点を収蔵する日本民藝館を設立、初代館長として運動の啓蒙と発展に努めた。

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富本憲吉 とみもとけんきち(1886-1963)

富本憲吉東京美術学校で建築、室内装飾を学ぶ。在学中にウィリアム・モリスの工芸思想に触れ、英国に私費留学。帰国後、バーナード・リーチと親交を結び、バーナード・リーチが楽焼を始めた影響で、陶芸の道に進んだ。
「模様から模様を作るべからず」を終生の信条に、白磁・染付・色絵と生涯に渡り独創的な意匠と造形を求めた。

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河井寛次郎 かわいかんじろう(1890-1966)

河井寛次郎東京高等工業学校窯業科卒業後、京都陶磁器試験所に入所。東京高等工業学校では、板谷波山の指導を受けた。
京都陶磁器試験所で同僚となった濱田庄司とともに釉薬の研究にいそしみ、中国陶磁の模倣を行った。
京都・五条坂にあった五代清水六兵衛の窯を譲り受け、「鐘渓窯」と名づけ自らの作品制作を開始。柳宗悦と出会ってからは、「用の美」を意識するようになった。中国古陶磁を範とした初期、「用の美」の中期、「造形」の後期と言われる。
文化勲章、人間国宝に推挙されても辞退し、生涯一陶工を貫いた。

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濱田庄司 はまだしょうじ(1894-1978)

東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科で、板谷波山に師事。京都市立陶芸試験場では河井寛次郎と共に釉薬の研究を行う。その頃、柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチの知遇を得、親交を深めたバーナード・リーチとともに渡英。陶芸家として本格的な活動を開始した。1924年、関東大震災の知らせを受け帰国。1930年からは、深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町に移住した。2代目日本民藝館館長就任。名実ともに民藝運動を支え続けた。

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バーナード・リーチ Bernard Howell Leach (1887-1979)

バーナードリーチ西洋と東洋、民藝と海外の橋渡し役を担った。幼少期を関西で過ごし、1909年再来日。リーチのエッチング教室に参加した柳宗悦と知り合う。富本憲吉とともに訪れた上野の博覧会会場で楽焼に絵付けを始めたことをきっかけに、楽焼に興味を持つ。六代目尾形乾山に入門し、我孫子の柳宗悦の自宅に窯を開いた。1920年、拠点をイギリス南西部セント・アイブスに移し「リーチ・ポタリー」という名の窯を開いた。柳宗悦の論文を英訳、また『A Potter’s Book』(陶工の書)を執筆し、多方面から民藝思想を普及した。

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芹沢銈介 せりざわけいすけ(1895ー1984)

東京高等工業学校(現・東京工業大学)工業図案科卒業後、東京銀座で催された『日本民藝展』で柳宗悦と出会う。柳宗悦とともに日本各地を訪ね、沖縄の染物・紅型(びんがた)に出会ったことをきっかけに型染めを中心とした染色の道を歩む。ビジネス面での優れた企画力を持ち、和紙の型染カレンダーのヒットなど染色にとどまらない幅広い仕事を行った。

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棟方志功 むなかたしこう(1903-1975)

棟方志功1924年画家を目指して上京、国画創作協会の展覧会で観た川上澄生の版画に感銘を受け版画家になることを決意する。1936年国画会展に出品した『大和し美し』(やまとしうるわし)が出世作となり、会場に赴いていた柳宗悦、濱田庄司の目に留まる。以来、民藝運動という活動の足場を築き制作に励んだ。スイスで開催された第二回国際版画展などでの受賞も続き、棟方を通じて民藝運動の知名度も高まった。

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黒田辰秋 くろだたつあき(1904-1982)

京都の塗師屋の6男として生まれ15歳で蒔絵師に弟子入りする。分業が常であった漆芸の世界で、独学で木工による素地制作から始め、漆芸の一貫制作を志す。1924年、河井寛次郎と出会い、その後寛次郎に柳宗悦を紹介される。1927年、柳を指導者とする上賀茂民藝協団を創立。1970年には、重要無形文化財「木工芸」の保持者に認定されるが、漆芸の分野でも秀でた業績を残すとともに、耀貝と名付けられたメキシコ鮑を用いた作品においても独自の境地に達した。

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