フランス パリの蚤の市と犬顔の持ち手のついたステッキ

その他 2026.06.29

魅惑という名の亡霊:パリの蚤の市と骨董の魔力

ダンスカンパニーからの招待を受け、私はパーカッション担当としてパリの劇場に立っていた。公演は連日大盛況で充実していたが、スケジュールは分刻みのタイトなもの。しかし、せっかくのパリだ。私は忙しいスケジュールの合間を縫って、早朝のパリ南部、ポルト・ド・ヴァンヴで開催されているヴァンヴの蚤の市へと足を運んだ。
日本にも骨董市やフリーマーケットは存在するが、西洋アンティークが主流の蚤の市はやはり別格だ。会場に足を踏み入れた瞬間から、私の心臓はバクバクと高鳴り、全身の血が沸騰するような興奮を覚えた。

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匂い立つガラクタと、運命の出会い

立ち並ぶテント、その間に無造作に広げられたシートの上には、日常の生活感がそのまま息づいているような品々が並んでいた。欠けたガラスのコップ、絵付けが剥げかけた陶器の皿、アールデコ風の優美な脚を持つ家具、埃をかぶったベネチアンマスク、鮮やかなヴィンテージアクセサリー、そして一体何に使うのか見当もつかない奇妙なオブジェたち。ごちゃ混ぜに陳列されたそれらは、まるで時が止まった小さな博物館のようだった。
匂い立つような古い紙と金属の香りの中をかき分けながら歩いていると、ふと、ある一本のステッキが私の視界に飛び込んできた。
スラリと真っ直ぐに伸びた木製のシャフト、その先端を飾るのは、銀無垢で作られた精巧な犬の顔。リアルでありながらどこかユーモラスで、職人の手仕事が宿る見事なヘッドだった。
「これだ」
心の底から叫び声が上がった。数ある品々の中で、そのステッキだけが強烈なオーラを放ち、私を呼んでいる気がしたのだ。

三十分の攻防戦

しかし、ここで「欲しい!」という感情を露骨に顔に出してはいけない。カモにされ、足元を見られるのは目に見えている。私は深呼吸をして、平静を装って無造作に値段を尋ねてみた。
返ってきた答えは、案の定高額だった。かなりの予算オーバーだ。ここから、言葉と表情を通じた心理戦が始まる。一歩前進すれば二歩後退するような、じれったい値段交渉が続いた。互いの駆け引きは三十分以上にも及び、私が決して引かない姿勢を見せると、店主は呆れたような、しかしどこか嬉しそうな笑顔を浮かべて「そんなに欲しいのなら」と半値を提示してきた。
だが、ここで素直に頷いては男がすたる。いや、私自身が納得できない。さらに粘り強く交渉を重ね、ジェスチャーを総動員して、ついに提示額からさらに10パーセントの値引きを勝ち取った。
手に入れたステッキの銀無垢の犬の顔は、どことなく微笑んでいるように見えた。交渉の末に手に入れたという事実が、そのステッキを単なる「モノ」から「私の愛おしい相棒」へと昇華させていた。
宿舎に戻り、劇団員たちにこの顛末を自慢げに話したところ、「またぼったくられたんじゃないの?」と散々からかわれた。それでも私は全く意に介さなかった。これは私が選び、私が勝ち取ったステッキなのだから。

わずか20秒の悪夢

公演も無事に終わり、帰国の日を迎えた。私はシャルル・ド・ゴール空港のロビーで、搭乗チケットを受け取るために列に並んでいた。
ステッキは決して手放さず、しっかりと握りしめてセキュリティも万全だった。
やがてチケットを受け取るために自分の名前が呼ばれた。荷物を抱えたままでは対応できないため、私はほんの20秒ほど、ステッキをカートの脇にかけたままカウンターへ向かった。
チケットを手に取り、振り返った、その瞬間だった。
ステッキがない。
わずか20秒の間に、それは跡形もなく消え去っていた。
「やられた……」
言葉を失うほどの落胆と、冷たい絶望が全身を駆け巡った。空港での盗難は、まず戻ってくることはない。あれほどまでに愛し、激しい交渉の末にようやく手に入れたステッキだったのに。あの時、僕の眼差しを射抜いて離さなかった唯一無二の存在は、パリの風の中に溶けるように消えてしまった。

魅惑という名の病

あれ以来、ステッキを探して様々な骨董店や蚤の市を巡っているが、あの犬のヘッドのような運命的な出会いには二度と恵まれていない。「一期一会」という言葉を、これほどまでに痛感させられたことはない。
それにしても、なぜアンティークなモノたちは、こうも私たちを魅了する見えないベールに包まれているのだろうか。
傷だらけの家具、色褪せた絵画、持ち主の顔すらわからない銀食器。それらはただ古いだけでなく、どこか「魅惑」という名のオーラをまとって佇んでいる。そして、その魅惑に一度でも魅了されてしまうと、心身ともに抗えなくなってしまうのだ。あの歴史と物語が宿るオーラは一体何なのだろうか。
気がつけば、私の部屋にはアンティークや作品が一つ、また一つと増え続けている。収集癖という名のゴミ屋敷に、まっしぐらだ。家族や友人には呆れられるが、それでも私は終わりのない骨董を求めて、今日も彷徨ってしまう。パリの空港で失ったあのステッキの面影を追い求めながら、まだ見ぬ美しいガラクタたちとの邂逅を待ち望んでいるのである。

 

担当

田川伸一

随筆家

随筆家。「文化史」「比較文化」など文化を通して現代社会にアプローチし、執筆活動を行う。美術に関するエッセイなどを更新中。