炭水化物と微睡みの回廊 ――東の池袋「蔵王」と西の新宿「六本木」

その他 2026.08.26

地下へ続く階段の記憶

かつて昭和の東京には、地上の喧騒から切り離された「終わらない夜」を内包する地下回廊が存在した。自動ドアの向こうから漂う、焙煎された珈琲の苦い香りと、香ばしいバターの匂い。携帯電話もインターネットもなかった時代、若者たちは夜が更けると、ある者は夢を語るために、またある者はただ朝を待つために、特定の喫茶店を目指して階段を降りた。

その双璧をなしたのが、東のターミナル・池袋にそびえ立った(いや、深く潜った)「蔵王(ZAO)」であり、西のターミナル・新宿の地下でその名を轟かせた「六本木」であった。なぜ池袋に宮城・山形にまたがる山の名が掲げられ、なぜ新宿に港区の繁華街の名が冠されていたのか。その名付けの不思議さすらも、あの時代の混沌としたエネルギーを象徴しているように思える。

両店に共通していたのは「24時間営業」という不夜城の構えと、何よりも「ドリンクを頼めばトーストが何枚でも食べられる」という、現代から見れば採算度外視とも思える、あまりにも寛容なシステムであった。

東の池袋「蔵王」――地下に広がるトーストの桃源郷

池袋駅西口、歓楽街の象徴であるロサ会館のほど近くに、純喫茶「蔵王」はあった。五光ビルの地下1階へと足を踏み入れると、そこには少々高低差のあるいびつな、しかし妙に落ち着く空間が広がっていた。

「蔵王」のシステムは、当時の常識を超えていた。席につき、ブレンド珈琲を一杯注文する。すると、まだ頼んでもいないのに、厚切りのトースト半分とゆで卵が自動的にテーブルへと運ばれてくる。初めて訪れた者は「注文していません」と戸惑うが、店員は当たり前のように「サービスですから」と言い置いて去っていく。

しかも、それは単なる「モーニング」の枠にとどまらない。24時間いつでも、カゴを持ったウェイトレスが焼きたてのトーストを載せて客席を回り、「トーストいかがですか」と声をかけてくれるのである。

1970年代から80年代にかけて、この店は近隣の学生をはじめ、多くの若者たちの胃袋を支え続けた。テーブルにスポーツ新聞や雑誌を広げ、バターが染み込んだトーストを何枚も平らげながら、若者たちは何時間も居座った。

夜が更ければ、そこは終電を逃した者たちの「駆け込み仮眠所」へと姿を変える。始発を待つサラリーマンや、夜の街で働き疲れた人々が、珈琲一杯の値段で温かいトーストをかじり、ベルベットの椅子に身を沈めて微睡む。

「蔵王」という山の名は、池袋の地下で、凍える都会の夜を生きる人々を包み込む、文字通りのシェルター(避難小屋)のようでもあった。時には大きな器に盛られたパフェを囲み、歓声を上げる若者たちの声が、深夜の紫煙の中に溶けていった。

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西の新宿「六本木」――大ガードの向こう、シュガーを纏う日常

一方、西の雄・新宿駅西口の青梅街道交差点付近、やはり地下の暗がりに店を構えていたのが喫茶「六本木」である。新宿にいながら「六本木」へと入っていくという、都市の地理的なねじれが、すでに日常からの脱出を予感させた。

ここでも「蔵王」と同じく、魅惑のトースト巡回システムが稼働していた。ドリンクを一品オーダーすれば、定期的にウェイトレスがトレーにトーストを載せて店内を回ってくる。

しかし、「六本木」には独自の「文化」が存在した。提供されるトーストにはあらかじめマーガリンが薄く塗られているのみで、ジャムなどの甘味は添えられていない。そこで、新宿の泥臭い夜を生きる学生や若者たちが編み出したのが、各テーブルに常備されていたコーヒー用の「シュガー(砂糖)」を、容赦なくトーストに振りかけるという荒業であった。

ジャムの代わりにジャリジャリとした砂糖の食感と強烈な甘みが、マーガリンの塩気と混ざり合う。それはお世辞にも上品とは言えないが、徹夜の麻雀明けや、西口のボウリング場で身体を動かした後の乾いた身体には、最高のエネルギー源であった。

店内にはテレビも設置され、夜になればプロ野球中継に見入る客もいた。見ず知らずの者同士が、トーストをかじりながら同じ画面を眺める。新宿「六本木」は、洗練された港区のそれとは真逆の、泥臭く、しかしどこまでも人間味にあふれた「若者の共同体」であった。

寛容の時代と、失われた代謝

なぜ、このような回転率の悪い、経営を圧迫しそうなシステムが成立していたのだろうか。現代のカフェであれば、利用時間の制限や厳密な原価計算によって、このような「無限食べ放題」はなかなか成立しないだろう。

その背景には、あの時代が持っていた「空間の寛容さ」があったのかもしれない。当時の珈琲一杯の価格は、決して物価に対して安すぎたわけではなかった。その一杯には、場所代、仮眠代、そして「トーストを分け合う」という無言の福祉まで含まれていたように思える。店側にもまた、「若いうちは腹いっぱい食えばいい」という、一種の太っ腹な心意気があったのではないだろうか。

そして客の側もまた、夜中に炭水化物を貪ることなど、さほど気にも留めなかった。若さに任せて街を歩き、仲間と議論し、何かに憤り、身体を動かして未来を模索していた。トーストに振りかけられた白い砂糖は、彼らが都市を駆け抜けるための、文字通りのガソリンであった。

記号化された街に寄せて

時が流れ、2000年代を迎える頃、東京の地下の生態系も少しずつ変化していった。「蔵王」は2004年にその歴史に幕を閉じ、新宿の「六本木」もまた姿を消した。都市の再開発や人々の生活様式の変化、そして飲食店に求められる効率性の高まりとともに、どこまでも時間を引き延ばせた深夜喫茶は、次第にその姿を消していった。

現在の池袋西口や新宿西口には、洗練されたモダンなカフェや、コンセントを備えたワークスペースが増えている。しかし、そこには「頼んでもいないのに差し出される温もり」や、「卓上の砂糖を振りかけて食べるような、貧しくも愛おしい即興性」は、なかなか見つけられない。すべてが決済システムとマニュアルによって整えられた空間の中で、私たちは時折、あの地下へ続く階段を思い出す。

東の池袋「蔵王」と、西の新宿「六本木」。あの二つの地下迷宮が提供していたのは、単なるパンと卵ではない。それは、何者でもなかった若者たちが、都会の冷たさから身を寄せ合い、夜を明かすための「ささやかな繭(まゆ)」だったのである。

一枚のマッチラベルに残る、街の記憶

喫茶店そのものが姿を消しても、その記憶は意外な形で残されていることがある。

写真は、古美術永澤で実際にお譲りいただいた古いマッチラベルの一部である。そこには、かつての喫茶店やカフェーの名、所在地、そして当時の流行を反映した意匠などが、小さな紙面に凝縮されている。

マッチは本来、火をつければ一本ずつなくなり、箱やラベルも役目を終えれば捨てられてしまう消耗品であった。しかし、こうしてまとまって残されたものを見ると、単なる広告物を超え、当時の街並みや人々の暮らし、デザイン感覚を伝える資料としての面白さが見えてくる。

骨董や古美術というと、古い陶磁器や掛軸、絵画などを思い浮かべることが多い。しかし、時代の姿を後世へ伝えるものは、必ずしも高価な美術品ばかりではない。人々が日常の中で手に取り、使い、何気なく残した品々にも、その時代ならではの文化や美意識が刻まれている。

姿を消した店の記憶が、一枚のマッチラベルによって数十年後まで残されている。そう考えると、かつて池袋や新宿の地下に存在した喫茶店の記憶もまた、どこかの引き出しや古いアルバムの中に、小さな「物」として眠っているのかもしれない。

担当

田川伸一

随筆家

随筆家。「文化史」「比較文化」など文化を通して現代社会にアプローチし、執筆活動を行う。美術に関するエッセイなどを更新中。