郎世寧の買取
郎世寧の作品を高く評価しております。
もし作品がお手元にございましたらぜひご相談ください。
郎世寧(ろう せいねい、1688-1766年)は中国、清前期のイタリア人の宮廷画家である。イタリア名はジュゼッペ・カスティリオーネ Giuseppe Castiglione。
1688年7月19日にイタリアのミラノに生まれた。ボローニャ派の伝統に従ったプロの画家としての訓練を積む。アンドレア・ポッツォに直接学んだわけではないが、その影響を受けていた。
1707年にジェノヴァのイエズス会の会士となった。すでに絵事に優れていたため、司祭ではなく修士を務め、中国で画家として働く任務を与えられた。画家として清朝に奉仕することを決意し、ポルトガル経由で1715年に中国に渡った。
康煕帝に拝謁した。康熙帝の崩御後、雍正帝はキリスト教を禁止。宣教師をマカオに追放したが、北京の宮廷にいる宣教師は引き続き仕えることができた。乾隆帝にはまだ皇子だったころから仕えており、とくに重用された。以後、康煕・雍正・乾隆3朝に仕えて多くの絵画を制作した。
雍正帝と乾隆帝は1747年より円明園の大々的な拡張を行い、カスティリオーネはその設計に参加し、バロック様式を取りいれた。
絵画作品は、中国風のマティエールを用い、西洋風の陰影法と写実主義をもって描く折衷的な様式であり、同時期の画院絵画に大きな影響を与えた。
乾隆帝やその皇妃、子供たちの肖像画を多数残した事でも知られている。「皇帝の顔に影を描いてはいけない」という決まりがあったため、西洋画の特徴でもある影を入れて描く事ができず、その肖像画のほとんどが正面を向いており、皇帝の顔がのっぺりとした顔立ちで描かれている。それに対し、騎乗している馬は西洋画の技法で立体的に描かれている作品も見る事ができる。
1766年に北京で没し、侍郎の官位を贈られた。
康熙年間の作品は残っておらず、雍正元年に描かれた静物画「聚瑞図」が現存する作品でもっとも古い。
年表
1688年 ミラノで生まれる
1707年 イエズス会の会士となる
1715年 中国に渡る
1747年 円明園の設計に参加
1766年 死去
1688年7月19日にイタリアのミラノに生まれた。ボローニャ派の伝統に従ったプロの画家としての訓練を積む。アンドレア・ポッツォに直接学んだわけではないが、その影響を受けていた。
1707年にジェノヴァのイエズス会の会士となった。すでに絵事に優れていたため、司祭ではなく修士を務め、中国で画家として働く任務を与えられた。画家として清朝に奉仕することを決意し、ポルトガル経由で1715年に中国に渡った。
康煕帝に拝謁した。康熙帝の崩御後、雍正帝はキリスト教を禁止。宣教師をマカオに追放したが、北京の宮廷にいる宣教師は引き続き仕えることができた。乾隆帝にはまだ皇子だったころから仕えており、とくに重用された。以後、康煕・雍正・乾隆3朝に仕えて多くの絵画を制作した。
雍正帝と乾隆帝は1747年より円明園の大々的な拡張を行い、カスティリオーネはその設計に参加し、バロック様式を取りいれた。
絵画作品は、中国風のマティエールを用い、西洋風の陰影法と写実主義をもって描く折衷的な様式であり、同時期の画院絵画に大きな影響を与えた。
乾隆帝やその皇妃、子供たちの肖像画を多数残した事でも知られている。「皇帝の顔に影を描いてはいけない」という決まりがあったため、西洋画の特徴でもある影を入れて描く事ができず、その肖像画のほとんどが正面を向いており、皇帝の顔がのっぺりとした顔立ちで描かれている。それに対し、騎乗している馬は西洋画の技法で立体的に描かれている作品も見る事ができる。
1766年に北京で没し、侍郎の官位を贈られた。
康熙年間の作品は残っておらず、雍正元年に描かれた静物画「聚瑞図」が現存する作品でもっとも古い。
年表
1688年 ミラノで生まれる
1707年 イエズス会の会士となる
1715年 中国に渡る
1747年 円明園の設計に参加
1766年 死去
郎世寧の代表的な作品
- 「八駿図」
- 「牡丹図」
- 「瓶花」
- 「聚瑞図」
- 「花陰双鶴図」
- 「白鷹」
出張買取
出張依頼
お気軽にご相談ください。お電話・LINE・メールフォームから承ります。
日時決定
お品物についてお聞きした後、ご都合のよいご訪問日時を調整し決定いたします。
ご訪問・査定
ご指定の日時に目利きがご訪問し、お品物を拝見して、査定額をご提示いたします。
買取・お支払い
ご提示した査定額にご納得いただきましたら、その場で現金でお支払いいたします。
美術品の時価評価が必要な皆さまへ
郎世寧を含め、相続や企業の帳簿価格の見直し等で必要な美術品・骨董品の時価評価は、「美術品評価サービス」がございます。