作品の査定・評価について
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張瑞圖(1570-1641)は、明代末期の中国の書画家・政治家です。字は長公、一字無画、号に二水・白毫庵主・果亭山人などがあります。福建省晋江(現在の泉州市晋江市)出身で、1607年に進士となり、翰林院編修を経て礼部尚書・東閣大学士にまで上り詰めました。しかし、晩年には藩政の変動、宦官・魏忠賢派との関係を巡る政治的混乱に巻き込まれ、降格・除籍の憂き目にも遭いました。
明末という政治・社会の不安定な時代にあって、「書・画を通じて自己の内面世界を表現する文人芸術家」として位置づけられます。書法で高い評価を得たことで、後世の書史では邢侗・米万鐘・董其昌らと並び称され、明清交替期の文化過渡を代表する書画家としてその名を残しています。
また、政治家としてのキャリアも芸術活動に影響しており、公務・書画・文人交流という三位一体の文人生涯が、作品の中にもその影を落としています。
1570年
福建省泉州府晋江県霞行郷に生まれる。
字は長公、一字無画、号は二水・白毫庵主など。
家は貧しく、母が織布で家計を支える。
1596年
杜甫「渼陂行」を臨書した草書巻を制作。早くから書の才能を示す。
1603年
郷試(福建省)に合格、挙人となる。
1607年
進士科に及第し、一甲第三名(探花)(※中国科挙制度における最高等級の3位の称号)となる。翰林院編修に任命。
1626年
礼部尚書兼東閣大学士に就任。
光宗実録の編纂に参加し、太子太保・武英殿大学士に昇進。
1627年
明熹宗崩御、崇禎帝が即位。
魏忠賢の死後、張瑞図は宦官派(閹党)の一員として批判される。
1628年
3度の辞表提出の末、ようやく致仕(退官)を許される。太保の称号と恩蔭を受ける。
帰郷の途上、書家としての代表作の一つである行書「韓愈山石詩」軸を制作。
1641年
逝去
張瑞圖の代表的な作品
- 赤壁賦
- 山水図




