宮島詠士の買取
宮島詠士の作品を高く評価しております。
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宮島 詠士(みやじま えいし、1867年11月15日(慶応3年10月20日) - 1943年(昭和18年)7月9日)は、明治から昭和前期に活躍した能書家、中国語教育家である。
出身は、山形県米沢。名は吉美、通称は大八(だいはち)、詠士は字で、号は詠而帰廬主人である。
政治家・宮島誠一郎の子として米沢に生れる。11歳で勝海舟の門に入門。詠士の作品は全体的に緊張感が溢れており、背勢の印象を強く与える。しかし、一つひとつの字形を見ることにより、背勢・向勢が入り交じっていることがわかる。詠士の40代前後の作品は六朝風のアンバランスな造形であるが、50代に入ると『九成宮醴泉銘』を消化し、整斉なものに再編し書風を一変させた。しかし、重厚な六朝の風韻が内に蔵され、近代的な洗練さと明るさが光っている様子が伺える。碑への揮毫は6基あり(『佐藤継信之碑』、『犬養公之碑』など)、なかでも最後の碑の『犬養公之碑』は詠士晩年の最高傑作である。
詠士は1904年(明治37年)に中国語の教科書である『官話急就篇』を刊行し、中国語の私塾、善隣書院を創設して生涯その経営にあたり、戦前の中国語教育に大きく携わった。また書家としても著名であり、代表作『犬養公之碑』は日本書道史において異彩を放つ楷書碑として尊いとされている。書の門弟に上條信山や藤本竹香がいる。
明治から大正は書家と学者と文人の区別が曖昧な時代であり、この時代の第一流の書家といわれた者は、学者でもあり詩人でもあったとされている。芸術家というよりも学のあることが要求され、詠士もまたそのように心がけた。よって、現在の専門的な学者と職業的な書家の中間的な存在であり、文人書家と呼ばれた。しかし、詠士は純粋な詩人でも学者でもなく、教育家として独特な地位を有しており、文人書家の特殊な存在であった。詠士は中国に知人が多く、中国問題については強い理想と信念をもっていたため、民間における興亜運動の一勢力をなしていた。よって、その書もそのような門下に貴ばれることとなり、一般にはあまり親しまれていなかった。
出身は、山形県米沢。名は吉美、通称は大八(だいはち)、詠士は字で、号は詠而帰廬主人である。
政治家・宮島誠一郎の子として米沢に生れる。11歳で勝海舟の門に入門。詠士の作品は全体的に緊張感が溢れており、背勢の印象を強く与える。しかし、一つひとつの字形を見ることにより、背勢・向勢が入り交じっていることがわかる。詠士の40代前後の作品は六朝風のアンバランスな造形であるが、50代に入ると『九成宮醴泉銘』を消化し、整斉なものに再編し書風を一変させた。しかし、重厚な六朝の風韻が内に蔵され、近代的な洗練さと明るさが光っている様子が伺える。碑への揮毫は6基あり(『佐藤継信之碑』、『犬養公之碑』など)、なかでも最後の碑の『犬養公之碑』は詠士晩年の最高傑作である。
詠士は1904年(明治37年)に中国語の教科書である『官話急就篇』を刊行し、中国語の私塾、善隣書院を創設して生涯その経営にあたり、戦前の中国語教育に大きく携わった。また書家としても著名であり、代表作『犬養公之碑』は日本書道史において異彩を放つ楷書碑として尊いとされている。書の門弟に上條信山や藤本竹香がいる。
明治から大正は書家と学者と文人の区別が曖昧な時代であり、この時代の第一流の書家といわれた者は、学者でもあり詩人でもあったとされている。芸術家というよりも学のあることが要求され、詠士もまたそのように心がけた。よって、現在の専門的な学者と職業的な書家の中間的な存在であり、文人書家と呼ばれた。しかし、詠士は純粋な詩人でも学者でもなく、教育家として独特な地位を有しており、文人書家の特殊な存在であった。詠士は中国に知人が多く、中国問題については強い理想と信念をもっていたため、民間における興亜運動の一勢力をなしていた。よって、その書もそのような門下に貴ばれることとなり、一般にはあまり親しまれていなかった。
宮島詠士の代表的な作品
- 「官話急就篇」
- 「急就篇」
- 「急就篇総訳」
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