作品の査定・評価について
長尾雨山の作品を高く評価しております。
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長尾雨山(ながお うざん、1864年-1942年)は、明治から昭和期に活躍した日本の漢学者・書家・画家・篆刻家である。
1864年10月18日讃岐高松藩士の長尾勝貞の長子として香川郡高松に生まれる。幼い頃から父である長尾勝貞に師事。漢学を学び、天性の詩才を見出される。
1888年東京帝国大学文科大学古典講習科を卒業。卒業後は、岡倉覚三(天心)に共鳴し東京美術学校の設立に尽力する。美術雑誌「国華」の創刊にも協力しその編集も行う。一方で学習院、文部省専門学務局を経て、1897年第五高等学校教授を務める。その間夏目漱石の同僚となり、詩文などでも親交を深めた。1899年東京高等師範学校教授に転じ、東京帝国大学文科大学で講師を務める。
その後1902年に職を退官し上海に移住。当時中国最大の出版社であった商務印書館に入り編訳を主宰。初の中等教科書の編集に従事する。また、1912年には岡倉覚三の紹介でボストン美術館の監査委員を委嘱され美術品の選別にも携わる。
1914年帰国。帰国後は京都で在野の学者として研究と講学をし、詩社偶社の主宰や平安書道会の副会長、芸文社顧問、泰東書道院、日本美術協会などに関係し、活躍した。当時一流の学者や文人とも交遊を広めた。
1942年4月1日京都の自宅にて死去。享年79。
長尾雨山の詩文は「明の七子の風」を標榜したが、しだいに唐詩・宋詩にも影響され独自の詩風を確立した。書は草書に優れた。画は墨竹図を得意とし、書画の鑑定に精しかった。
年表
1864年 香川郡高松に生まれる
1888年 東京帝国大学文科大学古典講習科を卒業
東京美術学校の設立に尽力
1897年 第五高等学校教授を務める
1899年 東京高等師範学校教授
東京帝国大学文科大学講師
1902年 職を退官
上海に移住
1912年 ボストン美術館の監査委員を委嘱される
1914年 帰国
1942年 死去
1965年 「中国書画話」が刊行
1864年10月18日讃岐高松藩士の長尾勝貞の長子として香川郡高松に生まれる。幼い頃から父である長尾勝貞に師事。漢学を学び、天性の詩才を見出される。
1888年東京帝国大学文科大学古典講習科を卒業。卒業後は、岡倉覚三(天心)に共鳴し東京美術学校の設立に尽力する。美術雑誌「国華」の創刊にも協力しその編集も行う。一方で学習院、文部省専門学務局を経て、1897年第五高等学校教授を務める。その間夏目漱石の同僚となり、詩文などでも親交を深めた。1899年東京高等師範学校教授に転じ、東京帝国大学文科大学で講師を務める。
その後1902年に職を退官し上海に移住。当時中国最大の出版社であった商務印書館に入り編訳を主宰。初の中等教科書の編集に従事する。また、1912年には岡倉覚三の紹介でボストン美術館の監査委員を委嘱され美術品の選別にも携わる。
1914年帰国。帰国後は京都で在野の学者として研究と講学をし、詩社偶社の主宰や平安書道会の副会長、芸文社顧問、泰東書道院、日本美術協会などに関係し、活躍した。当時一流の学者や文人とも交遊を広めた。
1942年4月1日京都の自宅にて死去。享年79。
長尾雨山の詩文は「明の七子の風」を標榜したが、しだいに唐詩・宋詩にも影響され独自の詩風を確立した。書は草書に優れた。画は墨竹図を得意とし、書画の鑑定に精しかった。
年表
1864年 香川郡高松に生まれる
1888年 東京帝国大学文科大学古典講習科を卒業
東京美術学校の設立に尽力
1897年 第五高等学校教授を務める
1899年 東京高等師範学校教授
東京帝国大学文科大学講師
1902年 職を退官
上海に移住
1912年 ボストン美術館の監査委員を委嘱される
1914年 帰国
1942年 死去
1965年 「中国書画話」が刊行