- 帝室技芸員
作品の査定・評価について
富岡鉄斎の作品を高く評価しております。
もし作品がお手元にございましたらぜひご相談ください。

はじめ富岡家の家学である石門心学を、15歳頃から大国隆正に国学や勤王思想を、岩垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学ぶ。
1855年、大田垣蓮月尼のもとで、蓮月焼と呼ばれる陶器作りの手伝いをする。蓮月が65歳、鉄斎が20歳のときのことで、鉄斎は蓮月に大いに感化される。
このころから本格的に絵画を勉強し始める。南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画を小田海僊に、大和絵を浮田一蕙に学ぶ。
1861年には長崎に遊学し、長崎南画派の祖門鉄翁、木下逸雲・小曽根乾堂らの指導を受けた。
「わしの絵は盗み絵だ」と鉄斎は言ったが、特定の師につくこともなく、彼は貪欲にあらゆる絵画を参考にし、模写を繰り返し、全く独自に絵画技法を追求した。
1862年、画業で生計を立て始める。
鉄斎が描いたのは「詩書画三絶」の書画で、美術団体や美術学校には基本的に距離を置いていた。そもそも鉄斎は自分を画家とは考えておらず、そう評されることも好まなかった。
「万巻の書を読み万里の道を行く」文人生活を理想とし、画は文人の余技として、常に「わしの絵を見るならまず賛を読んでくれなされ」と言っていた。その脱俗・隠棲志向は、まさに中国の文人・教養主義を実践するものだった。
京都市美術学校で教えたのが修身だったのも、鉄斎の基底には、人間としての普遍的な徳を求める意識が最も重要なテーマとしてあったためと思われる。
南画・明清画・大和絵とあらゆる絵画を学びながら、いずれにもこだわらず、晩年に至るにつれて超俗の高みに達していったのは、それこそが鉄斎の求めた道だったからである。
1917年、帝室技芸員になる。
1919年、帝国美術院会員に任命される。
1924年、京都の自宅で死去。享年89歳。
買取実績
幅広く買取りいたします
富岡鉄斎の代表作品
阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図
大正3年(1914年)に79歳で描かれた六曲一双の屏風で、重要文化財に指定されています。右隻は唐に渡った阿倍仲麻呂が明州で別れの宴の際に月を見て故郷を思い、「天の原」の歌を詠んだ故事を描いています。左隻は入宋僧寂昭(円通大師)が呉門寺に隠棲した故事を描いたもので、豊富な知識に基づいたストーリー性が特徴です。
富士山図
明治31年(1898年)に63歳で描かれた六曲一双の屏風で、鉄斎の富士山を題材とした作品の中でも最高傑作との呼び声が高い作品です。右隻には威風堂々たる富士の眺望が、左隻には富士山の頂上が描かれており、全く異なる二つの富士の表情を見事に表現しています。清荒神清澄寺鉄斎美術館に所蔵されており、宝塚市の指定文化財となっています。
富士遠望図・寒霞溪図
明治38年(1905年)に70歳で描かれた作品で、京都国立近代美術館に所蔵されています。富士山を題材にした多くの作品の中でも、特に構図や色彩の美しさで注目される作品で、2024年の没後100年富岡鉄斎展でも重要な展示作品となりました。
妙義山図・瀞八丁図
明治39年(1906年)に71歳で描かれた六曲一双の屏風で、布施美術館に所蔵されています。妙義山と瀞八丁という日本の名勝を題材に、雄大な自然の景観を鮮やかな色彩と力強い筆致で表現した傑作です。年の没後100年富岡鉄斎展の図録の表紙作品にも選ばれるなど、代表的な山水画として評価されています。
二神会舞図
大正13年(1924年)に描かれた、鉄斎の最晩年の傑作として知られる掛軸です。「古事記」の天孫降臨神話における一場面を題材にしており、鉄斎が亡くなったその年に制作された作品として特別な意味を持っています。現在は東京国立博物館に所蔵されています。
その他の富岡鉄斎の代表作リスト
旧蝦夷風俗図 | 武陵桃源図 | 瀛洲遷境図 | 蓬莱仙境図 | 不尽山頂全図 |
弘法大師像図 | 蘇東坡図 | 河内千早城図 | 阿倍仲麻呂在唐詠和歌図 | 鮮魚図 |
山水図 | 渉歴余韻冊 | 土神建土安神社図 | 椎根津彦像 | 平瓫図 |
空翠湿衣図 | 勾白字詩七絶 | 富而不驕図 | 艤槎図 | 雲龍図 |