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作品の査定・評価について
件翁宗左(啐啄斎)の作品を高く評価しております。
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件翁宗左 啐啄斎(けんおうそうさ そったくさい,1744~1808年)は表千家8代千宗左。家元。
幼名与太郎。件翁の号をもつ。如心斎の嫡男として生まれる。八歳のとき父が他界したため、わずか十四歳にして代を継ぐこととなるが、幸い叔父の一燈や、父の高弟に川上不白をはじめ優れた後見者を得て茶匠となる。天明八年、啐啄四十五歳のころ、京の都を焼き尽くした天明の大火により、表裏両千家の屋敷が焼失。伝来の道具のみを残して多くの茶室や史料を失った啐啄であったが、すぐさま再建し翌寛政元年には利休二百回忌の盛大な茶会が催された。他にも、大きな席としては如心斎の五十回忌も催しており、長く代を守った啐啄ならではの活動が見受けられる背景には、父天然宗佐如心斎らによる家元制度の整備によるところが大きいと考えられる。啐啄は六十歳にいたって家督を了々斎に譲り隠居し宗旦となった。表千家では家元が宗左を名乗ることに加え、隠居して宗旦を名乗ることが慣例となとなったのは、この啐啄にはじまる。これに対し元伯宗旦のことを古宗旦と呼ぶこととなった。好み物には、南紀徳川家初代から伝わる松の枯板を拝領して作った溜真塗丸卓や丸香台など、種々知られている。文化五年、六十五歳で没している。
幼名与太郎。件翁の号をもつ。如心斎の嫡男として生まれる。八歳のとき父が他界したため、わずか十四歳にして代を継ぐこととなるが、幸い叔父の一燈や、父の高弟に川上不白をはじめ優れた後見者を得て茶匠となる。天明八年、啐啄四十五歳のころ、京の都を焼き尽くした天明の大火により、表裏両千家の屋敷が焼失。伝来の道具のみを残して多くの茶室や史料を失った啐啄であったが、すぐさま再建し翌寛政元年には利休二百回忌の盛大な茶会が催された。他にも、大きな席としては如心斎の五十回忌も催しており、長く代を守った啐啄ならではの活動が見受けられる背景には、父天然宗佐如心斎らによる家元制度の整備によるところが大きいと考えられる。啐啄は六十歳にいたって家督を了々斎に譲り隠居し宗旦となった。表千家では家元が宗左を名乗ることに加え、隠居して宗旦を名乗ることが慣例となとなったのは、この啐啄にはじまる。これに対し元伯宗旦のことを古宗旦と呼ぶこととなった。好み物には、南紀徳川家初代から伝わる松の枯板を拝領して作った溜真塗丸卓や丸香台など、種々知られている。文化五年、六十五歳で没している。