- 茶道具
- 表千家
作品の査定・評価について
益田鈍翁の作品を高く評価しております。
もし作品がお手元にございましたらぜひご相談ください。
益田鈍翁(1848–1938)は、激動の幕末から明治、大正、昭和初期を駆け抜けた人物です。彼は、世界を相手に戦う「三井物産」の創始者でありながら、一方で日本文化の精髄である茶道を再興させた近代茶道の祖でもあります。彼の歩みは、そのまま日本の近代化の歴史と言っても過言ではありません。
1. 幕末の放浪から三井の巨頭へ
鈍翁、本名・益田孝は、佐渡奉行所の地役人の子として生まれました。幼少期から英語を学び、幕府の遣欧使節団に同行して渡欧した経験を持つ、当時としては極めて稀な国際感覚の持ち主でした。
維新後、井上馨の勧めで実業界に入ると、弱冠27歳にして三井物産の初代社長(専務)に就任します。それまでの日本にはなかった「総合商社」というビジネスモデルを確立し、米、石炭、生糸などの貿易を通じて、三井財閥、ひいては日本経済の基盤を築き上げました。
彼はビジネスにおいて「情報のスピード」を重視しました。自ら新聞社(現在の日本経済新聞社)を創設したのも、正確な市況を把握するためであり、その先見の明は圧倒的でした。
2. 「鈍翁」の誕生と数寄の道
実業家として絶頂期にあった益田が、茶の湯の世界にのめり込んでいったのは、40代の頃でした。彼は1891年、表千家の家元から「鈍翁」という号を授かります。これは彼が手に入れた名器「鈍太郎(茶碗)」に由来しています。
当時の茶道は、家元制度の枠組みの中で形式化し、かつての勢いを失っていました。また、明治維新後の廃仏毀釈により、寺院が所有していた貴重な仏像や古書画が次々と海外へ流出したり、打ち捨てられたりする危機にありました。
鈍翁は、自らの財力と審美眼を駆使し、これら国宝級の美術品を私財で買い支えました。*彼にとって茶の湯とは、単なる嗜みではなく、失われゆく日本の美を救い出し、再構築するための真剣勝負の場だったのです。
3. 近代数寄者としての革新:大師会の創設
鈍翁が茶道界に起こした最大の革命が、1896年から始まった「大師会(だいしかい)」です。これは弘法大師(空海)の命日に合わせ、自らのコレクションを披露しつつ、名士たちと交流する大規模な茶会でした。
「取合わせ」の妙: 鈍翁は、古い慣習にとらわれない大胆な道具の組み合わせ(取合わせ)を行いました。仏教美術を茶室に持ち込み、経典を掛け軸として仕立て直すなど、新たな美の価値観を提示しました。
財界人のネットワーク: 鈍翁の茶会には、原三渓(原富太郎)や野崎幻庵、根津嘉一郎といった当時の有力実業家たちが集まりました。彼らは「数寄者(すきしゃ)」と呼ばれ、競い合うように美術品を収集し、それが現在の三井記念美術館、根津美術館、五島美術館などのコレクションの基礎となりました。
4. 鈍翁の美学と人間的魅力
鈍翁の美学を一言で表すなら、「自在(じざい)」です。 彼は「茶道は遊芸なり。面白くなくてはならぬ」と語り、堅苦しい作法よりも、主客が心を通わせ、美しいものに感動することを最優先しました。
また、食へのこだわりも非常に強く、自ら厨房に立って客をもてなすこともありました。「生活すべてが芸術である」という彼の生き方は、後の北大路魯山人などにも大きな影響を与えたと考えられます。
5. 晩年と遺産:小田原での日々
1914年に実業界の第一線を退くと、鈍翁は神奈川県小田原に別邸「掃雲台(そううんだい)」を構え、そこで悠々自適の隠居生活を送りました。しかし、その影響力は衰えるどころか、小田原は「茶の湯の聖地」のようになり、連日のように客が訪れました。
91歳で没するまで、彼の知的好奇心が枯れることはありませんでした。死の間際まで「もっと美しいものを見たい」と願ったと言われています。
益田鈍翁が現代に遺したもの
私たちが今日、東京国立博物館や各地の私立美術館で平安時代の仏画や鎌倉時代の絵巻物、宋・元の中国美術を鑑賞できるのは、かなりの部分において、益田鈍翁とその周辺の数寄者たちが、私財を投じてそれらを守り抜いたおかげです。
彼が遺した「鈍翁好み」と呼ばれる美意識は、今もなお日本の工芸や空間デザインの底流に息づいています。
1. 幕末の放浪から三井の巨頭へ
鈍翁、本名・益田孝は、佐渡奉行所の地役人の子として生まれました。幼少期から英語を学び、幕府の遣欧使節団に同行して渡欧した経験を持つ、当時としては極めて稀な国際感覚の持ち主でした。
維新後、井上馨の勧めで実業界に入ると、弱冠27歳にして三井物産の初代社長(専務)に就任します。それまでの日本にはなかった「総合商社」というビジネスモデルを確立し、米、石炭、生糸などの貿易を通じて、三井財閥、ひいては日本経済の基盤を築き上げました。
彼はビジネスにおいて「情報のスピード」を重視しました。自ら新聞社(現在の日本経済新聞社)を創設したのも、正確な市況を把握するためであり、その先見の明は圧倒的でした。
2. 「鈍翁」の誕生と数寄の道
実業家として絶頂期にあった益田が、茶の湯の世界にのめり込んでいったのは、40代の頃でした。彼は1891年、表千家の家元から「鈍翁」という号を授かります。これは彼が手に入れた名器「鈍太郎(茶碗)」に由来しています。
当時の茶道は、家元制度の枠組みの中で形式化し、かつての勢いを失っていました。また、明治維新後の廃仏毀釈により、寺院が所有していた貴重な仏像や古書画が次々と海外へ流出したり、打ち捨てられたりする危機にありました。
鈍翁は、自らの財力と審美眼を駆使し、これら国宝級の美術品を私財で買い支えました。*彼にとって茶の湯とは、単なる嗜みではなく、失われゆく日本の美を救い出し、再構築するための真剣勝負の場だったのです。
3. 近代数寄者としての革新:大師会の創設
鈍翁が茶道界に起こした最大の革命が、1896年から始まった「大師会(だいしかい)」です。これは弘法大師(空海)の命日に合わせ、自らのコレクションを披露しつつ、名士たちと交流する大規模な茶会でした。
「取合わせ」の妙: 鈍翁は、古い慣習にとらわれない大胆な道具の組み合わせ(取合わせ)を行いました。仏教美術を茶室に持ち込み、経典を掛け軸として仕立て直すなど、新たな美の価値観を提示しました。
財界人のネットワーク: 鈍翁の茶会には、原三渓(原富太郎)や野崎幻庵、根津嘉一郎といった当時の有力実業家たちが集まりました。彼らは「数寄者(すきしゃ)」と呼ばれ、競い合うように美術品を収集し、それが現在の三井記念美術館、根津美術館、五島美術館などのコレクションの基礎となりました。
4. 鈍翁の美学と人間的魅力
鈍翁の美学を一言で表すなら、「自在(じざい)」です。 彼は「茶道は遊芸なり。面白くなくてはならぬ」と語り、堅苦しい作法よりも、主客が心を通わせ、美しいものに感動することを最優先しました。
また、食へのこだわりも非常に強く、自ら厨房に立って客をもてなすこともありました。「生活すべてが芸術である」という彼の生き方は、後の北大路魯山人などにも大きな影響を与えたと考えられます。
5. 晩年と遺産:小田原での日々
1914年に実業界の第一線を退くと、鈍翁は神奈川県小田原に別邸「掃雲台(そううんだい)」を構え、そこで悠々自適の隠居生活を送りました。しかし、その影響力は衰えるどころか、小田原は「茶の湯の聖地」のようになり、連日のように客が訪れました。
91歳で没するまで、彼の知的好奇心が枯れることはありませんでした。死の間際まで「もっと美しいものを見たい」と願ったと言われています。
益田鈍翁が現代に遺したもの
私たちが今日、東京国立博物館や各地の私立美術館で平安時代の仏画や鎌倉時代の絵巻物、宋・元の中国美術を鑑賞できるのは、かなりの部分において、益田鈍翁とその周辺の数寄者たちが、私財を投じてそれらを守り抜いたおかげです。
彼が遺した「鈍翁好み」と呼ばれる美意識は、今もなお日本の工芸や空間デザインの底流に息づいています。




