
写真:x768 / Wikimedia Commons(CC BY-SA 2.0)
東北からの夜行列車が到着する北の玄関口として、長年日本の鉄道史の中心を担ってきたこの街に、独特の熱気を放つ商店街がある。それが「アメヤ横丁」、通称「アメ横」だ。JR上野駅から御徒町駅にかけての約400メートルにわたるガード下には、現在も約400もの店舗がひしめき合っている。しかし、この雑多で活気あふれる商店街が、いかにして生まれ、時代とともにどう変化してきたのか。その歴史を紐解くことは、そのまま日本の戦後復興の歩みを辿ることと同義である。
アメ横の歴史は、1945年の終戦直後、焼け野原となった上野駅周辺に自然発生した「闇市」に端を発する。当時の日本は極度の物資不足であり、人々は生きるために必要な食料や衣類を求めて闇市に群がった。砂糖が統制経済の下で非常に貴重だった時代、サツマイモを原料とした芋飴などを売る露店がこの一帯に多数誕生した。こうした芋飴の「アメ」が語源とする説に加え、アメリカ軍放出品を扱ったことから「アメリカ横丁」と呼ばれ、その二つが重なって「アメ横」の呼称が定着したともいわれている。
闇市の取り締まりが行われる中、行政の指導によって「近藤マーケット」などの組織的な露店街が形成され、復員兵や引揚者たちの生活の糧として機能していくこととなる。やがて1950年、朝鮮戦争が勃発すると、この街の風景は劇的な変化を迎える。アメリカ軍の物資、いわゆる「PXの横流し品」が大量にマーケットへと流れ込んだのである。レイバンのサングラスやZIPPOライター、ブルージーンズなどが店頭に並び、このエリアはいつしか「アメリカ横丁」とも呼ばれるようになった。芋飴の「アメ」とアメリカの「アメ」が交差することで「アメ横」という呼称が定着していくこのプロセスは、戦後日本がアメリカ文化を貪欲に吸収し、復興への活力を得ていた時代の縮図そのものであった。
高度経済成長期に入ると、アメ横は日用品や衣料品だけでなく、海産物や乾物などの食料品を扱う店舗を増やしていった。業者向けの築地市場とは異なり、一般消費者が店員との掛け合いや値切り交渉を楽しめる対面販売のスタイルが、多くの庶民を惹きつけた。テレビのニュースで毎年のように報じられる年末の「カニやイクラの叩き売り」は、アメ横が東京の冬の風物詩として全国に認知されるきっかけとなった。
時代は令和へと移り変わり、アメ横もまた大きな転換点を迎えている。近年では、大手資本による大規模な都市開発やネット通販の台頭、そして何よりパンデミックが、伝統的な対面販売を主体とする商店街に大きな打撃を与えた。一時はかつての賑わいが嘘のように人影が消え、店舗の撤退も相次いだと報じられた。しかし、アメ横の生命力はここで潰えることはなかった。
今日のアメ横を歩くと、その変化と適応力に驚かされる。かつてのアメリカ軍放出品店に代わって、ケバブや中華料理、東南アジア系の食材店や立ち飲み屋が軒を連ね、通りを行き交う人々の多くは外国人観光客である。かつての昭和レトロな風景を知る人からは、その変貌ぶりに違和感を覚える声もあるかもしれない。だが、見知らぬ文化を柔軟に取り込み、混沌としたエネルギーを保ち続けることこそが、アメ横が戦後一貫して守ってきた本質なのだと言える。国際色豊かな街へと変化した現代においても、アメ横の根底にある「人情味」は健在である。店先から響く威勢の良い呼び込みの声や、店頭でのちょっとしたサービス、店員と客との気軽なコミュニケーションは、効率化された現代のショッピングモールでは味わえない魅力である。
アメヤ横丁は、戦後の闇市という苦難の中から生まれ、アメリカ文化の受容、そしてインバウンドによる多国籍化の現代へと、時代の波を巧みに乗り越えてきた。巨大資本の画一的な都市開発が東京を覆い尽くす中でも、アメ横は決してそのアイデンティティを失っていない。
雑多で、泥臭く、しかし誰をも温かく迎え入れる「アジア的カオス」とも呼ぶべき空間は、東京という都市の懐の深さを証明している。これからもアメ横は、多様な人々が行き交う交差点として、時代の変化を呑み込みながら、独自の活気を刻み続けていくことだろう。
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担当
田川伸一
随筆家
随筆家。「文化史」「比較文化」など文化を通して現代社会にアプローチし、執筆活動を行う。美術に関するエッセイなどを更新中。
