
ポケットの中で、汗ばんだ10円玉がカサリと音を立てた。昭和四十年代半ば、私がまだ世界を自分の足の届く範囲でしか知らなかった頃、その硬貨はまさに魔法のメダルだった。十円あれば、夢のほとんどが手の届くところにあった時代である。
夏の陽射しがアスファルトを照りつける中、私はいつものように近所の駄菓子屋ののれんをくぐった。ガラガラと引き戸を開けると、そこには甘い香りと、得体の知れないワクワク感が充満していた。薄暗い店内は、子供たちにとってのワンダーランドだった。色とりどりの小瓶が並び、天井からは紐で結ばれた駄菓子がぶら下がっている。
今日の目的は決まっていた。ラムネとアメ玉だ。しかし、ここで一つの大きな壁が立ちはだかる。当時、近所の駄菓子屋で売られていたラムネは七円だった。十円玉一枚では、ラムネを二つ買うことはおろか、何か一つを買い足すだけでも予算オーバーになってしまう。残された三円の使い道が、私の小さな脳みそをフル回転させた。「おばあちゃん、これと、これ。」私は背伸びをしながら、ガラスケースの中を指差した。七円のラムネは、ビー玉が栓をしているあの独特なガラス瓶に入ったものだ。飲むたびにカランコロンと涼しげな音を立てる。残りの三円で何を買うか。一円の「ソースせんべい」を三枚にするか、あるいは三円の「よっちゃんいか」にするか。それとも一円のアメ玉を三つにするか。この三円の差が、子供にとっては一大事だった。
駄菓子屋は、単なるお菓子売り場ではなかった。それは社会の縮図であり、人生で初めて直面する「経済活動」の場でもあった。限られた資源の中で、いかに最大の満足を得るか。予算という制約の中で優先順位をつけ、自分なりの「最善の選択」を下す訓練を、私たちは駄菓子屋で学んでいたのである。
あの頃の日本は、まさに高度経済成長の真っただ中だった。街には新しいビルが建ち、テレビからは「三種の神器」に代表される新しい電化製品のCMが流れていた。社会全体が右肩上がりで、誰もが未来に希望を抱いていた時代だ。しかし、どれほど世の中が便利になり、街の風景が変わろうとも、子供たちの手の中にある十円玉の価値は絶対的なものだった。
やがて、私の注文を受けた店のおばあちゃんが、皺だらけの手で手際よくお菓子を袋に詰めてくれた。七円のラムネを手渡されたときの、あのずっしりとした重みと冷たさを、今でもはっきりと覚えている。栓を開けるときの「ポン」という小さな音は、まるで私だけの小さな祝砲のように響いた。
友達と分け合いながら食べたアメ玉の甘さは、今どれほど高級なスイーツを味わっても、鮮烈に舌の記憶に刻まれている。あの日の駄菓子屋には、お金では買えない豊かな時間が流れていた。駄菓子屋の店先で交わされる他愛のない会話や、夕暮れ時になると、遠くから漂ってくる夕飯の匂い。それらすべてが、あの十円玉の価値をさらに高めていたのだ。
時代は流れ、平成、令和と進むにつれて、私たちの生活は劇的に変化した。街からは個人経営の駄菓子屋が姿を消し、コンビニエンスストアがその役割を担うようになった。百円で買えるものも減り、貨幣の価値も変わった。しかし、ふとした瞬間に、あの日の七円のラムネの味が蘇ってくることがある。
大人になるにつれて、私たちは選択肢が増え、より複雑な決断を迫られるようになった。しかし、どれほど多くの選択肢を手に入れようとも、あの日の駄菓子屋で感じたような、純粋なワクワク感や満足感を得ることは意外と難しい。
あの日の十円玉は、私に「選ぶことの楽しさ」と「今あるもので満足することの喜び」を教えてくれた。七円のラムネと三円のアメ玉。あの小さな組み合わせの中に、私の人生の原点とも言える豊かな宇宙が広がっていたのである。
大人になった今、私は再びポケットの中に十円玉を探すことはない。しかし、心の奥底には、あの頃握りしめていた十円玉が、今でもキラキラと輝き続けている。あの日の駄菓子屋の風景は、私の記憶の中で永遠に色褪せることはないのだ。
■参考文献
初見健一『まだある。 今でも買える“懐かしの昭和”カタログ 駄菓子編』
奥成達『駄菓子屋図鑑』
ながたはるみ 絵/奥成達 文『昭和の子ども生活絵図鑑』
宮本常一『忘れられた日本人』
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担当
田川伸一
随筆家
随筆家。「文化史」「比較文化」など文化を通して現代社会にアプローチし、執筆活動を行う。美術に関するエッセイなどを更新中。
