こちらは後編コラムとなります。
目次
1 生涯のパトロンや陶芸との出会い
33歳で北大路家の家督を継承 ついに北大路魯山人となる
明治から昭和にかけての“粋人”として知られる北大路魯山人。書道や篆刻、陶芸、絵画、漆工などを嗜む芸術家であり、美食家でもあった魯山人の後半生を見ていきましょう。
大正2年(1913年)、生地である京都に戻った房次郎は日本画家の冨田溪仙の紹介で生涯の大パトロンとなる実業家、内貴清兵衛と知り合います。日本新薬の創設者であり、島津製作所や日本電池、京都織物などの役員を歴任した大物で、京都市初代市長・内貴甚三郎の長男でもあります。つまり、超大金持ちのスポンサーを捕まえたことになります。大正4年(1915年)頃からは金沢の茶人で書家でもある細野燕台や陶芸家の初代須田菁華とも親しく付き合い、陶器、食器や料理への興味を新たにしていきます。須田菁華窯で焼き物の絵付けを初めて行い、陶器への興味もさらに増していくことになります。
大正5年(1916年)、3年前に長兄が亡くなっていたことから、母に家督を継ぐよう頼まれ、北大路家を継ぐことになります。北大路魯卿(ろけい)と名乗り、号を魯山人としました。33歳で魯山人となり、長浜や京都の文化人や素封家との濃い付き合いが始まりました。パトロンの内貴の別荘、松ヶ崎山荘で調理に没頭、様々な調理法や食材の研究をしていきます。
大正6年(1917年)に京都の美術印刷、出版社の便利堂4代目の中村竹四郎と知り合い、古美術店の大雅堂を共同経営することになります。ここで高価な器に魯山人自らが腕をふるった料理を作って、常連客に振る舞うようになりました。
2 「美食倶楽部」を発足、器作りに没頭
自ら器を作り料理を盛る、魯山人スタイルが確立する

魯山人の壺。釉薬が荒々しく、野趣あふれる仕上がり。
評判は広がっていき、大正10年(1921年)に会員制食堂「美食倶楽部」を発足させることになります。客が増えすぎて器が足りなくなったため、須田菁華窯でオリジナル作品を作り始めました。当時の魯山人は大忙しで、他にも落款印八十八顆を捺した印譜『栖鳳印存』を刊行したり、文部省が制定した常用漢字を楷書体・行書体・草書体の三体で揮毫した『常用漢字三體習字帖』を刊行するなど、陶芸家、料理人、書家、篆刻家として縦横無尽に活動していきました。
大正14年(1925年)には東京の永田町にあった上流階級の社交場「星岡茶寮」を借り受け、便利堂の中村が社長、魯山人が顧問として会員制高級料亭を開始します。この辺のエピソードが『美味しんぼ』でもネタにされています。翌年には魯山人窯芸研究所「星岡窯」を作り、本格的な作陶活動にものめり込んでいきました。
昭和3年(1928年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を開き、魯山人の名声は更に高まっていきます。昭和7年(1932年)に来日した喜劇王チャールズ・チャップリンが星岡茶寮を訪れ、宴会を開いています。星岡茶寮はますます大繁盛していったのですが、あまりの名声の高まりに魯山人も調子に乗ったようです。魯山人の横暴な振る舞い、特に厨房での料理人への暴力的なハラスメントの連続、気に入らない客を追い返す、さらに出費のあまりの多さから社長の中村より内容証明郵便で解雇通知を出されることになってしまいます。昭和11年(1936年)のことでした。
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3 無職となった魯山人、戦中戦後に奮闘す
一時はサラリーマン生活も、戦後にしぶとく復活を遂げる

北大路魯山人 志野茶碗
魯山人の志野茶碗。高台の内側に「ロ」の刻印が刻まれています。
まさかの無職となった魯山人、自宅の母屋を賃貸物件とし、迎賓館として使っていた慶雲閣を住居として作陶メインで活動を再開します。付き合いのあった料理屋や旅館向けに器を制作していました。また、書画用品や御香を扱う老舗、鳩居堂を通じて篆印の受注製作を開始。篆刻の料金は1文字30円で現在なら10万円以上の強気価格でしたが、星岡時代の顧客などから注文が多くあったようです。とはいえ、全盛期ほどの稼ぎはなく、贅沢な生活でもあったため、金策に困った魯山人が個展で売れ残った作品を一方的に請求書つきで送り付けてきた、なんて話も伝わっています。
日本が戦争状態に突入すると、星岡窯で軍用食器を作るなどしていましたが、物資は枯渇し、窯の煙が問題視されて作陶は中断。書や篆刻、漆工メインに創作活動を続けていきます。ちなみに魯山人は強度の近眼だったため、徴兵検査で不合格になっています。
昭和19年(1944年)には日本橋の白木屋百貨店の地下で食料品店「魯山人山海珍味倶楽部」を開きましたが、1年ほどで閉店。いよいよ困った魯山人はパトロンの塩田岩治の紹介で利根ボーリング(現在の株式会社東亜利根ボーリング)の社員となります。ここに来てまさかのサラリーマン生活となりますが、魯山人は終戦後の昭和21年(1946年)、銀座に自作品の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店して復活を遂げます。
4 海外人気高まるも、まさかの大借金
自身のパワハラ気質が原因で寂しい老後生活
昭和26年(1951年)にはパリのチェルヌスキ美術館で行われた「現代日本陶芸展」に「柿の葉文組皿」を出品、欧州で好評となります。あのパブロ・ピカソが魯山人の作品を鑑賞したとも伝えられています。進駐軍の新聞記者で、のちに日本の陶磁器研究家となったシドニー・カルドーゾと知り合ったことで、海外にも魯山人の作品が知られていくようになります。
昭和28年(1953年)にはロックフェラー財団の総帥、デイヴィッド・ロックフェラー夫人のマーガレットと知り合い、翌年にはロックフェラー財団の招聘により欧米各地で展覧会と講演会が開催されることになります。この旅行、最初は国費派遣の予定でしたが、魯山人自身が「言いたいことも言えなくなる」と自費での渡航を決断。現在の価値に換算すると1億円近い大借金をして向かいました。これが大失敗で、その後の魯山人は大困窮、返済のために盛んに展覧会を催すことになります。星岡窯の職人たちにもまともに給料を払えず、電気料金も払えないという状態に。昭和32年(1957年)には最古参の職人で魯山人の右腕だった松島宏明も去り、魯山人自身もどんどん衰えていくことになりました。
昭和34年(1959年)、東京国立近代美術館で開催された「現代日本の陶芸展」に足を運んだ魯山人でしたが、もう歩くことすらままならない状態でした。10月に京都美術倶楽部で「魯山人書道藝術個展」を開催しましたが、これが生涯最後の展覧会となりました。
同年11月4日、鎌倉の自宅から緊急入院となり、前立腺を摘出して小康状態となるものの、重度の肝硬変も発見されます。すでに手遅れの状態だったため、手術はせずに最期を待つこととなりました。12月21日に死去。76歳没。華やかで派手、粋人として世を味わい尽くした大人物ですが、最期ははかないものでした。
5 激しい人物だったが彼の“美”は永遠
遺族が遺骨を引き取りたがらず、最期は市営墓地に埋葬された
12月24日に鶴岡八幡宮で神式による葬儀が行われましたが、生前にパワハラ三昧だった魯山人、遺産分配でも揉めました。雇い人たちや星岡窯の従業員にもまともに給料を支払っておらず、退職金もなしだったため、窯場に残った作品や失敗作、釉薬や陶土に至るまで現物支給で配るほどでした。
さらに6度の結婚を繰り返していた暴れん坊ぶりでしたので、親族たちも誰も遺骨を引き取ろうとしない状態。結局、傍系の親族である丹羽茂雄が預かることに。その後も親族間で揉めに揉め、三番目の妻、島村きよとの長女であった和子の采配で洛北西賀茂の西方寺近くにあった市営の小谷墓地に埋葬されることで手打ちとなりました。
6回も結婚したのに生まれた男児2人は夭折しており、存命なのは娘の和子だけ。その和子も魯山人の超困窮期に「家計の足しに」と骨董を売ったことを咎めて勘当しており、自身が死にかけの時に病床に呼ぶこともなかった徹底ぶり。それは死後まで嫌がられても仕方ない傲岸不遜ぶりだったようです。
しかし、昭和35年(1960年)に食に関する著書『春夏秋冬料理王國』(淡交社)が刊行され、その後も『独歩 魯山人芸術論集』(美術出版社)、評伝『北大路魯山人』(文藝春秋)、『魯山人味道』、『魯山人書論』、『魯山人陶説』(東京書房社)など関連書籍が数多く刊行されていきます。北大路魯山人の美学はそのキャラクターも含めて多くの人に注目され、今でも語り継がれているのです。平成21年(2009年)には生誕126年と没後50年を祝して、生誕地である上賀茂北大路町に石標が建立されました。
とにかく毀誉褒貶が激しく、あらゆる美術に手を出していたために、その作品数も膨大。生涯に残した作品は30万点以上と見積もられる大家でもあります。そして、本人の気質はともかく、その美意識が宿る作品には熱いファンが多いのも事実。魯山人の作品は、今でも色褪せることなく彼の“美”を主張し続けています。
担当
宮司泰輔
サイトコラム編集者
美術品・骨董品について、初めて勉強する方にも分かりやすいコラムを執筆中です。
