目次
1 生まれたときから人生ハードモードの魯山人
『美味しんぼ』海原雄山のモデルのひとり、伝説の“粋人”
明治から昭和にかけての“粋人”として知られる北大路魯山人。書道や篆刻、陶芸、絵画、漆工などを嗜む芸術家であり、美食家でもあった魯山人は、令和の今でも芸術界のビッグネームとして知られています。
2027年に新たにアニメ化される漫画『美味しんぼ』に登場する食通、海原雄山のモデルのひとりでもあります。海原は魯山人の孫弟子という設定もあり、そのエピソードには魯山人ネタが散りばめられ、取り入れられていました。
色々やっていた人なのは知っているけど、何だかスゴい人っぽい……くらいの認識の方も多い印象の魯山人。その生涯はどんなものだったのでしょうか。
明治16年(1883年)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町。上賀茂神社の社家である北大路清操と、同じく社家の西池家出身である登女(とめ)の次男、房次郎として生まれました。社家とは特定神社の奉祀を世襲してきた家、要は神職です。北大路家は士族でしたが生活は貧しく、明治4年(1871年)に俸禄制と世襲制が廃止された影響をモロに受けた家でした。生活は極めて貧しく、父は京都と東京を往復する生活を送るなかで疲弊。さらに房次郎は母の不貞によってできた子であり、実父は不明の状態。結局、戸籍上の父である清操は精神を病み、房次郎が生まれる4ヶ月前に割腹自殺してしまいます。
母である登女は、生まれた房次郎を育てられませんでした。知人の巡査である服部良知の紹介で滋賀県にある坂本村の農家に房次郎を預けることにして……そのまま失踪してしまいました。
預かり先の農家でも扱いが悪かった房次郎を見かねて、服部夫妻が京都に連れ戻して養子とし、服部房次郎となります。ところが今度は服部巡査が行方不明となり、その妻も病死。房次郎より先に養子となっていた義兄夫婦に面倒を見てもらうことになります。
不安定だった時代とはいえ、房次郎の赤子時代は波乱万丈過ぎます。その後、義兄が精神を病んで死去。明治20年(1887年)頃に義姉は房次郎を連れて実家に身を寄せることになります。ところが、今度は実家の母から虐待を受ける始末。見かねた近所の人の紹介で、上京区(現在の中京区)竹屋町の木版師だった福田武造、フサ夫妻に養子縁組を持ちかけ、ようやく房次郎は落ち着いて暮らすことができるようになりました。明治22年(1889年)、房次郎は6歳になっていました。
2 京都の自然に魅入られ“美”を志した少年時代
丁稚奉公の最中に見かけた行灯の“書と絵”に魅了される

北大路魯山人_掛軸・掛け軸
魯山人の絵は自由で、どちらかといえば素朴な線が特徴です
房次郎は苦難の6年を過ごしただけあって、大人びた子供だったようです。福田家に入ってすぐに台所仕事を買って出て、料理の基本を学んだとされています。
明治26年(1893年)、10歳で尋常小学校を卒業したとき、房次郎は密かに画家を志していました。3歳の頃、上賀茂神社の東側、神宮寺山を養姉と散歩しているとき、真っ赤なヤマツツジが咲き誇る光景を目にしました。その美しさを忘れられず、“美”に興味を持ったのです。
しかし、家業を継がせようと考えていた義父母は大反対、烏丸二条の千坂和薬屋への丁稚奉公に出されてしまいます。現在も創業120年以上の漢方薬局「わやくや千坂漢方薬局」として営業していますが、ここでの住み込み奉公となったわけです。
奉公している頃、仕出し料理屋「亀政」の行灯(あんどん)看板に一筆書きで描かれた亀の絵と文字に釘付けとなります。この行灯を描いたのは、亀政の長男で日本画家だった竹内栖鳳でした。房次郎は日本画に触れ、さらに“美”への渇望を感じていきます。
明治28年(1895年)、竹内が第四回内国勧業博覧会に出品した二曲一双の屏風絵『百騒一睡』を見た房次郎は、さらなる感銘を受けます。雀や眠る子犬がユーモラスに描かれた作品で、当時の日本画では革新的な作品でもありました。絵画への情熱が燃えたぎってしまった房次郎、明治29年(1896年)に奉公先を辞めて、養父母に画学校への進学を懇願します。しかし、金銭面で叶うことなく、家業である木版業の手伝いを開始しました。
家業を手伝いながら、一字書きの書道展覧会に出展、天の位、地の位、佳作に一点ずつ入賞し、その後も同様の会に出品を続けて多くの賞を受賞します。その賞金で絵の道具を購入し、自己流で絵を描き始め、西洋看板画家としても仕事を得るようになっていきます。
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3 東京で書家を目指し、あっという間に売れっ子へ
展覧会で褒状一等を受賞、書家として名を上げていく
明治36年(1903年)、20歳になった房次郎は、実母の登女が東京にいるという情報を得て上京。四条隆英男爵家で女中頭として働いていた登女と再会しますが、拒まれてしまいます。房次郎はそのまま東京で書家を目指すことにし、四条男爵の紹介で有名な書家の日下部鳴鶴と巌谷一六に師事します。しかし、楷書体の練習から始めるという指導方針に納得できず、独自に隷書体の稽古を続けることになりました。中国漢代に経書を書き写すのに用いられた文字で、公文書でも用いられる筆記体のひとつでした。
明治37年(1904年)、福田海砂の号で日本美術協会主催の美術展覧会に隷書体による『千字文』を出品。書の手本として使うために用いられた漢文の長詩ですが、これが褒状一等二席を受賞します。政治家の田中光顕に買い上げられ、“前代未聞の快挙”と話題になります。翌年に町書家の岡本可亭の内弟子となり、住み込みで版下書きの仕事を開始しました。岡本は漫画家の岡本一平の父、つまり後の画家、岡本太郎の祖父に当たります。師匠の岡本からは福田可逸の号を授かり、どんどん仕事が増えていきます。帝国生命保険会社(現在の朝日生命保険相互会社)に文書掛として出向することとなり、独立。明治40年(1907年)からは福田鴨亭を名乗ることになりました。
4 上流階級や文化人とのつながりの連鎖で成り上がる
雑誌の題字で大活躍、海外でも仕事をし、篆刻家としても飛躍

花入れの箱書き。魯山人の「ロ」を意匠化したものが落款として書かれています。
明治41年(1908年)に結婚し、同年には長男も誕生しますが、この妻とは後に離婚。長男も夭折します。ちなみに、生涯で6回もの結婚、離婚を繰り返すことになります。
書家としての仕事は順調で、収入を文具収集や食事に注ぎ込んでいくことになります。実業之日本社の社長、増田義一に気に入られ、同社の看板雑誌「實業之日本」、「幼年の友」、「小學男生」、「少女の友」、「日本少年」、「婦人世界」などの題字を揮毫するなど、ますます勢いは加速していきます。
明治43年(1910年)からは関係回復した実母の登女を伴ってソウルにいる兄に会うために朝鮮に旅立ちます。3ヶ月ほど旅行を楽しみ、その後は朝鮮総督府京城印刷局に書記として3年ほど勤務することになりました。当時は上海にも旅して書家・画家・篆刻家として高名だった呉昌碩に会うなど、精力的に動き回っています。
明治45年(1912年)に帰国、書道教室を開きます。しかし、半年ほどで滋賀の長浜の素封家、河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻に没頭する環境が提供されます。福田大観の号で滋賀に多くの作品を残しました。また、長浜の縮緬問屋、柴田源七と知り合い、こちらでも食客となるのですが、この柴田が房次郎を美の道へと導いた恩人、竹内栖鳳の後援者だったのです。竹内と再会した房次郎は、竹内の落款を作らせてくれと直談判。出来上がった落款を気に入った竹内が、多くの日本画家を紹介することになります。十代のころの出会いが紆余曲折を経てここで結実していくのですから、面白いものです。
さて、魯山人の人生を追ってきましたが、房次郎はいつまで経っても魯山人になりません。いつ、“あの”北大路魯山人となるのでしょうか。前半生はここまで。続きは後編コラムで。
担当
宮司泰輔
サイトコラム編集者
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