目次
1 1 4歳でカエルを写生、8歳で生首を写生
火消しの息子として育ち、歌川国芳に絵を習った幼少期

実に写実的なカラスの絵。暁斎の画力がよく分かる。
その号に“狂”の字を用いた異色の絵師がいます。河鍋暁斎の名は“ぎょうさい”ではなく“きょうさい”と読みます。そして、その“きょう”は、元来は“狂”でした。
自らを「画鬼」と称し、逮捕経験もあるほどの跳ねっ返り。その作品は神仏画から戯画や風刺画、動物画、さらには妖怪画や幽霊画など多岐にわたり、その全てが独自の世界観で描かれています。その特異な人生を紐解いてみましょう。
暁斎は天保2年(1831年)、下総国古河石町(現在の茨城県古河市中央町2丁目)で生まれました。父は古河の米穀商亀屋の次男として生まれ、古河藩士である河鍋喜太夫信正(かわなべ きだゆう のぶまさ)の養嗣子となった河鍋記右衛門。母のきよは浜田藩松平家の藩士の娘でした。天保3年(1832年)に江戸へ引っ越し、幕府直轄で旗本の下につく与力、同心で構成される定火消(じょうびけし)として本郷にあった火消し屋敷に住み始めます。現代でいえば消防署勤務の公務員に近いでしょう。暁斎の幼名は周三郎といい、天保4年(1833年)、数え4歳の頃には初めてカエルを写生したと言われています。絵心のある子供だったのでしょう。
天保8年(1837年)、浮世絵師の歌川国芳に入門します。江戸時代末期を代表する浮世絵師のひとりである国芳は、風景画や美人画、役者絵、武者絵、さらには戯画まで手掛けた非常に多彩な絵師です。そして幕府の政治を絵で風刺し続けた皮肉屋でもありました。国芳は弟子たちに、町での喧嘩で、投げ飛ばしたり組み伏せたり投げ飛ばされたりの姿をよく観察すべき、などと指導していました。暁斎はしっかり真に受け、長屋をうろついては喧嘩や口論を観察、写生していたといいます。天保10年(1839年)5月には神田川で拾った生首を写生して騒動になるなど、まだ8歳なのに後の破天荒ぶりを予感させる毎日を送っていました。
2 真面目な狩野派に移籍するも色々やらかす
実家が燃えているのを写生したり不審者扱いされたりの青年時代
天保11年(1840年)、父が国芳の素行を心配し、息子を預けておけんと御用絵師の一派である狩野派(駿河台狩野派)の絵師、前村洞和(まえむら とうわ)に再入門することになります。洞和は暁斎を可愛がり、“画鬼”と呼んで指導していたようです。しかし翌年、洞和が病に倒れ、駿河台狩野家当主の狩野洞白に預けられて修業を続けました。
弘化3年(1846年)、暁斎15歳。小石川片町からの出火で、実家である火消し屋敷が焼失してしまいます。さて、暁斎は何をしていたか。燃える屋敷を写生していたそうです。目に映るすべてのものを絵にしたい、絵描きの“業”を感じさせます。
嘉永元年(1848年)、現存する暁斎最初期の肉筆作品「毘沙門天之図」(河鍋暁斎記念美術館蔵)を制作。翌年には洞白より洞郁陳之(とういくのりゆき)の号を与えられ、19歳にして独立することになります。狩野派の修行は10年以上かかるのがザラだったため、9年ほどで号を得た暁斎は異例の速さで認められたわけです。順風満帆、のはずでした。
嘉永3年(1850年)11月には館林藩(秋元家)の絵師坪山洞山の養子となり、坪山洞郁と称するようになります。お抱え絵師の跡継ぎという超エリートコースに乗ったわけですが…嘉永5年(1852年)に坪山家から離縁される羽目に。理由は暁斎の素行不良です。“珍しい柄の帯を写生したい”との理由で屋敷の女中や街場の女性の尻を追いかけ回す(ように見えた)ため、不審者扱いされたというのが定説となっています。さすが、生首や火事場を写生していた男、とにかく目についたものは片っ端から写生していたのでしょう。
坪山家を追い出された暁斎は、苦難の時期へと突入します。しかし、とにかく絵を描きたい暁斎は、狩野派の縛りがなくなったことから、他流派である土佐派、琳派、四条派などの他流派の画風を学びまくります。
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3 出世作はナマズの戯画、一気に人気画家へ
江戸が壊滅状態となった安静の大地震で大ブレイク

東海道名所風景 二代 歌川国貞「鳳来寺」/河鍋暁斎「秋葉山」
文久3年(1863年)の第14代将軍徳川家茂の上洛を描いた錦絵シリーズ「東海道名所之内 秋葉山」
大きな転機になったのは安政2年(1855年)10月2日に起こった安政江戸地震でした。関東地方南部で発生したM7クラスの大地震で、江戸の被害は甚大でした。埋め立てられてから日が浅い隅田川東岸の深川や浅草の吉原などでは、震度6弱以上と推定される大きな揺れだったといいます。幕府による調査で4700人以上の死者、倒壊家屋14346戸とされる、未曾有の大災害のなか、暁斎の描いた1枚の絵が評判を呼びました。
地震で倒壊した吉原遊廓が仮店舗営業している広告絵として、仮名垣魯文の戯文に暁斎の鯰絵「お老なまづ」が描かれています。地震翌日の10月3日に版元から依頼があり、その翌日には版木が完成して刷られて売り出されたといわれ、大ヒット。地震の原因と言い伝えられる地底の大ナマズを題材に、女郎とエビ反り状態で足先に扇子を掲げる、ふざけたナマズに扮した遊び人を描いています。当時、暁斎は24歳。若き暁斎の名を一躍広めた作品が、こうした風刺性の強い広告絵だったというのも興味深いところです。
安政4年(1857年)、26歳の時に江戸琳派の祖である酒井抱一の弟子、鈴木其一の次女と結婚。絵師として独立し、父の要望で河鍋の姓を継ぐことになりました。安政5年(1858年)には「惺々狂斎」と号し、戯画や風刺をメインに浮世絵を描いて活躍。万延元年(1860年)頃からは周麿と称して錦絵を描き、他にも酒乱斎雷酔、酔雷坊、惺々庵、そして狂斎などの号で作品を描いていたことが分かっています。当時描いた『狂斎百図』はことわざなどにユニークな絵を添え、独特の戯画シリーズとして知られています。ほぼ酒に関連する名前なのは、無類の酒好きだったためです。
1870年(明治3年)10月6日、上野は不忍池の料亭で開かれた、即興の絵を描く書画会の席上でやらかします。泥酔した暁斎は明治政府の高官や役人を批判する風刺画を描き、政治批判としてしっかり怒られて逮捕、投獄されることになります。約3ヶ月入牢する羽目に陥りますが、皮膚病の悪化で一時釈放となり、難を逃れることとなりました。
4 明治になって“暁斎”を名乗りさらに大人気に
海外の画家とも関わりを持ち、さらに自身の画風に磨きをかける

東海道名所風景 河鍋暁斎「加茂の競馬」/二代 歌川国貞「京加茂」
こちらも「東海道名所之内 加茂の競馬」。京都の上賀茂神社で毎年5月5日に行われる伝統的な神事「賀茂競馬」を描いている。
明治4年(1871年)、狂を捨て、号を「暁斎」と改めます。幕末以来の人気絵師としての人気は続いており、精力的に作品を描きました。様々な派閥の絵を勉強した成果である日本古来の画風と、幕末、明治の特徴的な風俗を組み合わせ、独自の世界を構築していきました。
幕末からは絵日記を書き続けており、亡くなる1か月前のものまで残っています。20年以上描いていたようですが、現在見つかっているのは4年分だけ。出会った人の似顔絵や、毎月の支払い、画料や日々の天候まで記録しており、意外と細かい性格だったようです。
明治5年(1872年)には仮名垣魯文の『安愚楽鍋』(第三編)、明治7年(1874年)には『西洋道中膝栗毛』(第11編の一部、第12 – 15編)などの挿絵を描くなど、流行絵師としての仕事も継続しながら、明治6年(1873年)ウィーン万国博覧会に大幟「神功皇后武内宿禰図」を送り、日本庭園入口に掲示されます。明治9年(1876年)、フランスの実業家であり、美術鑑定家でもあったエミール・ギメらの訪問を受け、親交を交わしました。ギメが連れてきたフランスの画家、挿絵画家フェリックス・レガメとは、互いに肖像画を描き合ったりしたようです。ギメが本国に持ち帰った大量の仏像は、現在では通称ギメ美術館として日本でもよく知られるフランス国立東洋美術館の母胎となりました。
明治13年(1880年)、新富座のために幅17m、高さ4mの「妖怪引幕」(早稲田大学演劇博物館蔵)を4時間で描いて話題となり、明治14年(1881年)、第2回内国勧業博覧会に「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」(榮太樓蔵)を出品。暁斎はこの作品に“百円”の値を付けます。当時の百円は一般の労働者の数年分の給料に相当し、現代の約200万円〜300万円に相当するとされます。暁斎は「鴉の値段ではなく長年の画技修行の価である」と言い切り、その心意気を感じて実際に百円で購入したのが、日本橋の菓子舗・榮太樓本舗の店主、細田安兵衛でした。こうして暁斎は当代一の売れっ子画家の名声を高めていきます。
5 盟友コンドルと出会い、世界に名を轟かす
ヨーロッパでの暁斎人気を確立したのはコンドルの本

明治21年(1888年)に描かれた「蜥蜴と兎図」。晩年の作品だが、構図に筆致、題材、技術と迫力のある一枚。
同年、明治政府の御雇外国人として来日していた建築家のジョサイア・コンドルが暁斎のもとに入門します。上野博物館や鹿鳴館、有栖川宮邸などを設計した名建築家であり、日本人女性を妻として日本画だけでなく日本舞踊や落語も学ぶほどの日本通でした。暁斎は彼に「暁英(英暁の説もあり)」の号を与えるほど親しくなり、絵日記にも交流が描かれています。コンドルは暁斎から画を学び、その技法や作品を紹介する本を書きました。現在でもヨーロッパで暁斎の名が轟いているのは、コンドルの功績とも言えます。一方で作品の海外流出が加速してしまったのも否めませんが…。
日本画壇の異端児でありながら、トップランナーでもあった暁斎は、その後も数々の作品を描き続けました。明治20年(1887年)に設立された東京美術学校(現在の東京藝術大学の前身)の教授職を岡倉天心やアーネスト・フェノロサから依頼されるも果たせず、明治22年(1889年)、胃癌のため死去します。享年57。最期を看取ったのは、盟友であるコンドルでした。谷中にある瑞輪寺塔中正行院に墓があり、その墓石は暁斎が最初に写生し、その後も好んで描いたカエルに似た自然石が使われています。
昭和52年(1977年)には暁斎の曾孫、河鍋楠美が埼玉県蕨市南町に「河鍋暁斎記念美術館」を開館しています。暁斎の多彩な画業に触れるには、まさにうってつけの美術館です。
担当
宮司泰輔
サイトコラム編集者
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