川合玉堂とは|日本の風景を描き続けた日本画家の生涯と作品

帝室技芸員作品掛け軸買取 2026.08.22

1 京都出身の画家夫婦との出会いが人生を変えた

12歳で絵を描き始め、14歳で京都にて修行を開始することに

墨痕鮮やかな玉堂による山水画。朧月が美しい。

墨痕鮮やかな玉堂による山水画。朧月が美しい。

日本の情景を愛し、近代的な風景画を確立した画家、川合玉堂。明治から昭和にかけて活躍し、昭和15年(1940年)には文化勲章を受賞しています。
玉堂は明治6年(1873年)、11月24日、愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町外割田)にて、筆墨紙商の長男として生まれました。本名は芳三郎(よしさぶろう)。実家が紙を生業としていたため、幼い頃から環境は整っていたと思われますが、絵を描き始めたのは12歳頃だとされています。明治14年(1881年)に一家は岐阜市へと移住することになります。明治19年(1886年)、京都出身の画家、青木泉橋(あおきせんきょう)が岐阜へと引っ越してきます。青木の妻も翠蘋と号する画家で、夫婦で活動していました。青木夫妻と知り合った玉堂は、大いに刺激を受け、青木夫妻も岐阜の少年の画力の可能性を感じる出会いとなったようです。
明治20年(1887年)、14歳の玉堂は青木泉橋の紹介状を持って京都へと向かいます。訪れたのは京都画壇の一大勢力、四条派重鎮である望月玉泉(もちづきぎょくせん)の元でした。望月は祖父も父も絵師の家系に生まれ、四条派だけでなく円山派も学んで山水画や花鳥画で名を挙げました。明治13年(1880年)には京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)を設立し、教員も務めていました。
岐阜からやってきた玉堂は、ひとまず「玉舟」の号を授かり、望月の画塾で研鑽を積みます。明治23年(1890年)には円山派の絵師、幸野楳嶺(こうのばいれい)の画塾へも通い始めます。幸野は画家としてだけでなく教育者として名高く、京都府画学校の北宗画担当副教員も務めていました。

2 四条派、円山派、狩野派の技術を取り入れ研鑽

望月玉泉、幸野楳嶺に教えを受け京都の展覧会を席巻する若き天才

黄色い花の咲く木の下を船が往く、日常を切り取ったような作品

黄色い花の咲く木の下を船が往く、日常を切り取ったような作品

四条派の望月、円山派の幸野から画を学ぶことで、玉堂は自身の画風を確立していきます。明治23年(1890年)、号を「玉堂」に改め、第3回内国勧業博覧会に、『春渓群猿図』『秋渓群鹿図』の連作を出品、見事に入選を果たすことになります。17歳の若さで京都画壇に名を売った玉堂は、精力的に作品を発表していきます。
明治24年(1891年)からは、京都市照円寺境内の離れに母親とともに住んで、絵を描き続けます。この年の春、日本青年絵画協会に『夏雨水禽』を出品、秋には大成義会研究大会に『本間資氏射鴟図』を出品して一等賞を獲得しています。翌年には京都市美術展覧会で『春間野雉』を出品、精力的な活動を繰り広げていきました。
明治26年(1893年)には親戚の大洞家次女、富子と結婚します。二十歳での結婚ですから、現代から見れば非常に早く身を固めたことになります。同年には日本美術協会課題作で『旅中の砧』を発表、1等褒状を獲得。翌年には京都市美術工芸品展覧会で『二喬読兵書図』が三等銅牌を獲得と、結果を残し続けます。
明治28年(1895年)2月に師匠の幸野が亡くなります。京都では自身の画風を確立し、賞も多数獲得した玉堂、師匠も失って自身の今後もいろいろ考えたようです。この年に京都で開催された第4回内国勧業博覧会、玉堂は『長良川鵜飼』を出品して3等銅牌を獲得します。この博覧会に狩野派の橋本雅邦が出品した『竜虎の図』と『釈迦十六羅漢』を見て大いに感銘を受けた玉堂の視線は、自然と東京へと向けられていきます。雅邦は前回コラムに登場した狩野芳崖の親友であり、明治23年(1890年)開校の東京美術学校(後の東京藝術大学美術学部)の絵画科主任を務めていました。

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3 上京後も展覧会で受賞を重ね、日本画壇で頭角を現す

憧れの画家である橋本雅邦に学び、画塾も開いた最盛期

入江の港に集まる船の姿を描いたスケッチ的な風景画

入江の港に集まる船の姿を描いたスケッチ的な風景画

玉堂は、明治29年(1896年)に上京することを決意、23歳で麹町に居を構えて上京することになります。東京では、前年に強い衝撃を受けた橋本雅邦に師事することになりました。現在でいうなら、京都芸大から東京芸大へ転校したようなものでしょうか。9月には日本絵画協会主催第1回絵画共進会展に『波に鴎』を出品して早速褒状を獲得しています。
当時の画壇のトップたちから教えを受けた玉堂は、東京でも精力的に活動。明治30年(1897年)には薩摩藩出身で日清戦争などで大活躍、「明治陸軍の三羽烏」とも称された陸軍大将・川上操六(かわかみそうろく)の知遇を得て同家の襖絵16枚を描くという大仕事も行っています。4月には第2回絵画共進会展で『孟母断機』が3等銅牌。10月には第3回絵画共進会で『家鴨』3等銅牌、農商務省買上となるなど、実績を順調に積み重ねていきました。
その実力を知らしめ続けた玉堂は、明治31年(1898年)に師匠の雅邦や岡倉天心、横山大観らが創立した「日本美術院」に参加。現代でも公益財団法人日本美術院として歴史を刻む美術家団体であり、院展は日本美術院の公募展(展覧会)の名称として現在も使われています。同年にも4月に第4回絵画共進会で『池畔観花図』二等銀牌を獲得。10月には第5回絵画共進会で『冬嶺孤鹿』3等銅牌と日本画壇で更に名を挙げていきます。
その後も多くの作品が受賞を続け、明治33年(1900年)には自身の画塾「長流画塾」を開設。多くの門弟を迎えることになります。山内多門や池田輝方池田蕉園などが研鑽を積み、名を残していきます。

4 日本画壇の中心を担い、後進の育成にも尽力

名実ともに日本画壇の中心人物、それでも自身の作品は常に発表

強風の吹く山間部を馬を連れて行く男、躍動感のある風景画

強風の吹く山間部を馬を連れて行く男、躍動感のある風景画

明治35年(1902年)には日本絵画協会の幹事ならびに評議員を委嘱されました。毎年のように作品を発表し、多くが受賞し、その評価をさらに高めていきます。名声は更に高まっていき、明治38年(1905年)には上京して10年の節目、「東上10周年」として長流画塾の研究大会を開き、園遊会を催して大盛況だったようです。日本画壇における躍進ぶりは凄まじいほどでした。
明治40年(1907年)に開催された第1回文展(第1回文部省美術展覧会)では審査員を任された玉堂は、さらに日本画壇の指導的役割を担うようになっていきます。翌年には師匠の橋本雅邦が亡くなり、画壇は玉堂中心に芸術を論じる「山水会」が結成され、30年以上の長きに渡って続いていくことになります。長流画塾もどんどん発展していき、研究会だけでなく展覧会本位の団体、下萌会を立ち上げます。自らの絵を更に発表する場を増やしていきました。
大正元年(1912年)には文展日本画部を二科に区分した日本画部第二科審査員に任命され、ご意見番としての地位を固めていき、大正6年(1917年)には当時の宮内省によって運営されていた、美術家や工芸家の顕彰制度である帝室技芸員に任じられ、画壇の中心人物として名を馳せていきました。
大正7年(1918年)には東京美術学校日本画科主任となり、後進育成をさらに加速。自身の作品も手を抜かず、毎年のように多くの展覧会に出品を続け、多くの受賞作を世に送り出しています。

5 83歳で亡くなるまで絵に没頭して描き続けた

世界的な評価も得て各国から多くの受勲、日本画の大家へ

山吹の絵に俳句が添えられた俳画色紙。色合いが美しい。

山吹の絵に俳句が添えられた俳画色紙。色合いが美しい。

昭和になってからも玉堂は活躍を続けました。昭和3年(1928年)の1月には、昭和天皇の御即位に伴う「大嘗祭」が行われ、「大饗の儀」の会場に飾られた御大典用品である「悠紀地方風俗屏風」の揮毫を拝命。同年1月に依頼を受けた玉堂は、悠紀地方(滋賀県)を2月下旬から4月にかけて数度取材し、多くのスケッチを作成。四季の移ろうさま、春は伊吹山、夏は竹生島、秋は瀬田川、冬は比良山と県内の名所を美しく描き切りました。現在は宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されています。
昭和6年(1931年)にはフランス政府より、レジョン・ドヌール勲章を拝受、同年にはイタリア国王よりグラン・オフィシエ勲章を拝受するなど、国際的な評価も高まっていきます。昭和8年(1933年)にはドイツ政府より赤十字第一等名誉章も贈られ、名声はさらに上昇。かといって自身の作品を怠ることなく、多くの展覧会に出品しています。描きたいものがあふれるタイプの画家だったことが伺えます。
昭和15年(1940年)には文化勲章を授与。受勲後も、創作欲は衰えることもなく、さらに多くの作品を描き続けます。しかし、第二次世界大戦が始まり、昭和19年(1944年)からは写生で頻繁に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現在の青梅市御岳)に疎開します。昭和20年(1945年)には牛込にあった自宅が戦災にあい焼失。西多摩郡に完全に居を移して住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称して定住することになります。
玉堂は戦後も毎年のように新作を発表。昭和28年(1953年)にはブリヂストン美術館映画部によって撮影された映画『川合玉堂』が制作されます。創作する姿や、肉声を収めた貴重な記録美術映画として知られています。この年の11月から病に倒れ、4ヶ月ほど療養しますが、すぐに絵を描き始めています。
昭和32年(1957年)2月下旬に心臓喘息/心臓性喘息の発作を起こし、青梅の自宅にて療養を続けますが、6月頃から悪化。6月30日にこの世を去りました。享年83。亡くなる前年まで、絶えず絵を描き続けた人生でした。死後に正三位勲一等旭日大綬章を没時叙勲されています。
非常に多作、かつ長期にわたって活躍した玉堂の作品は、昭和36年(1961年)に開館した玉堂美術館(東京都青梅市御岳)などで見ることができます。

玉堂の作品は現在も美術市場で根強い人気があり、作品の内容や制作年代、来歴などによって高く評価されることがあります。ご自宅に長く受け継がれてきた掛軸や日本画の中に、玉堂の作品が眠っていることもあるかもしれません。

 

担当

宮司泰輔

サイトコラム編集者

美術品・骨董品について、初めて勉強する方にも分かりやすいコラムを執筆中です。