昭和という時代と、二大聖地
かつて、日本の大都市や地方の中心駅にそびえ立つ百貨店は、単に生活物資を買い求めるための商業施設ではありませんでした。そこは、日常のすぐ隣に用意された、きらびやかな非日常の空間であり、誰もが憧れる新しいライフスタイルを先取りして見せてくれる「都市の劇場」でもありました。
特に昭和の高度経済成長期から安定成長期にかけて、百貨店は家族連れにとって身近なエンターテインメント空間として機能していました。その楽しみの中心にあったのが、上層階に設けられた「大食堂」と、そのさらに上、青空の下に広がる「屋上遊園地」です。この二つは、当時の子どもたちにとって、遊園地とレストランの魅力を一つの建物に凝縮した「食と遊びのワンダーランド」でした。
現代の商業施設ではほとんど見られなくなった屋上遊園地と大食堂。その歴史を紐解いてみると、単なる懐かしい思い出だけではなく、日本の消費文化の発展や家族の休日の過ごし方、そして時代とともに変化してきた百貨店の姿が浮かび上がってきます。
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空に最も近い楽園:屋上遊園地の誕生と黄金期
日本の百貨店では、明治から大正期にかけて、屋上を庭園や休憩場所として顧客に開放する試みが広がっていきました。都市の中心部にありながら空を眺め、買い物の合間に一息つける屋上は、それ自体が人々を惹きつける場所となっていきます。
やがて屋上には庭園だけでなく、動物や遊具など、子どもたちを楽しませるためのさまざまな設備が登場しました。
屋上が本格的な「遊園地」へと発展していった象徴的な例が、1931年(昭和6年)に東武鉄道の浅草雷門駅(現・浅草駅)ビルに開業した松屋浅草です。その屋上には「スポーツランド」が設けられ、屋上を往復するケーブルカーや豆汽車など、さまざまな遊戯施設が人気を集めました。限られたビルの屋上に遊園地をつくるという発想は、当時の都市生活者に新鮮な驚きと楽しみをもたらしました。
戦後の高度経済成長期に入ると、屋上遊園地は黄金期を迎えます。日本中が豊かさを追い求め、休日のレジャーが一般家庭にも広がる中で、百貨店の屋上は身近に楽しめる行楽地となりました。
家族に連れられてエレベーターを昇り、屋上へ出た瞬間に広がる青空と、楽しげな音楽。そこにはメリーゴーラウンドやミニ列車、硬貨を入れるとガタゴトと動き出すパンダや自動車、新幹線などを模した乗り物が並んでいました。ゲームコーナーや小さな売店などもあり、子どもにとってはまさに小さな遊園地でした。
こうした屋上施設は、百貨店にとって集客の面でも大きな意味を持っていました。上層階や屋上に魅力的な施設を設けることで、来店客を建物の上まで誘導し、そこから各売り場を巡ってもらうことができます。
後に「シャワー効果」と呼ばれるようになった考え方にも通じるもので、屋上で遊んだ家族が、おもちゃ売り場や子供服売り場、婦人服売り場などへ立ち寄るきっかけにもなりました。屋上遊園地は、子どもたちを楽しませる場所であると同時に、百貨店全体に人を呼び込む役割も果たしていたのです。
食のテーマパーク:大食堂の熱気とお子様ランチ
屋上遊園地で存分に遊んだ後、あるいはその前に、家族で訪れる定番の場所となったのが「大食堂」です。
百貨店における本格的な食堂の先駆けとして知られているのが、白木屋(後の東急百貨店日本橋店)です。1911年(明治44年)の店舗改築に際して100席余りを備えた食堂が設けられ、その後、各地の百貨店でも大規模な食堂が発展していきました。
大食堂の入り口には、ガラスケースの中に精巧な「食品サンプル」がずらりと並びました。スパゲッティ・ミートソース、オムライス、ハンバーグ、エビフライ、寿司、天ぷら、ラーメン。色鮮やかな料理の見本を前に、子どもたちは目を輝かせながら、何を食べるか真剣に悩んだことでしょう。
注文方法やサービスの形態は百貨店や時代によって異なりましたが、大勢の客が一堂に会し、和食から洋食、中華、甘味まで幅広い料理を選べることが大食堂の大きな特徴でした。
大食堂の最大の魅力は、家族それぞれの好みに応えられる選択肢の豊富さにありました。おじいちゃんは天ぷら定食、お父さんは寿司、お母さんは五目焼きそば、そして子どもは洋食。それぞれ食べたいものが違っていても、一つのテーブルを囲んで食事を楽しむことができます。
何百人もの人々が行き交う広いフロアには、食器の触れ合う音や人々の話し声が響き、独特の活気に満ちていました。
そして、大食堂を象徴するメニューとして、今なお語り継がれているのが「お子様ランチ」です。
1930年(昭和5年)、三越日本橋本店の食堂に「御子様洋食」が登場しました。これがお子様ランチの原型の一つとして知られています。一方で、上野松坂屋にもお子様ランチの歴史があり、その起源については複数の百貨店が語られることがあります。
やがて、型抜きされたチキンライスやオムライスに小さな旗が立ち、その周囲をハンバーグやエビフライ、スパゲッティ、デザートなどが彩るスタイルが定着していきました。それは、子どもが好きなものを一つの皿に集めた「食の宝箱」のような存在です。
小さな旗が立った料理が目の前に運ばれてくること自体が、子どもにとって特別な体験でした。百貨店の大食堂で家族と食事をすることは、単に空腹を満たすだけではなく、家族そろって「特別な一日」を楽しむイベントでもあったのです。
時代の変化と、楽園の黄昏
昭和の終わりから平成にかけて、日本社会の変化とともに、屋上遊園地と大食堂も徐々に姿を変えていきます。その背景には、消費者の価値観や休日の過ごし方の多様化、新たな娯楽施設や飲食店の登場などがありました。
屋上遊園地を取り巻く環境を大きく変えたものの一つが、大規模なテーマパークをはじめとする新たなレジャー施設の普及です。1983年(昭和58年)には東京ディズニーランドが開園し、その後も各地で多彩なレジャー施設が発展していきました。
家族が休日を楽しむ場所の選択肢が増えるにつれ、百貨店の屋上だけが特別な娯楽空間という時代ではなくなっていきます。
また、安全面に関する各種法規制への対応や、遊具の維持管理にかかるコストなども、屋上遊園地を取り巻く環境を変化させました。さらに、ゲームセンターや家庭用ゲーム機をはじめとする新しい娯楽が普及し、子どもたちの遊びそのものも多様化していきました。
一方、大食堂を取り巻く環境も変化します。
経済が成熟し、外食文化が発達するにつれて、人々の食に対する嗜好は多様化していきました。和食、寿司、イタリア料理、中華料理など、それぞれのジャンルに特化した専門店が増え、消費者はより専門性の高い料理を選べるようになります。
こうした変化に合わせて、百貨店でも一つの巨大な大食堂にさまざまな料理を集めるスタイルから、複数の専門店が並ぶ「レストラン街」へと移行していきました。
かつては家族全員が一つの大食堂でそれぞれ違う料理を注文していたのに対し、次第に「今日は寿司」「今日は洋食」と、好みや目的に応じて店そのものを選ぶスタイルが一般的になっていったのです。
こうして、昭和の百貨店を彩った屋上遊園地と大食堂は、少しずつその役割を終え、あるいは新しい形へと姿を変えていきました。
形を変えて生き続ける「ハレ」の精神
現在、昔ながらの遊具が並び、家族連れで賑わう屋上遊園地や、和洋中さまざまな料理を一つの広いフロアで提供する大食堂は、日本国内でほとんど見られなくなりました。
しかし、それらが担っていた役割まで完全に消えてしまったわけではありません。百貨店は時代に合わせながら、その魅力をさまざまな形で受け継いでいます。
かつて遊具が並んでいた屋上は、現在では緑豊かな屋上庭園や、都会のオアシスとしてのウッドデッキ、イベントスペース、フットサルコート、期間限定のビアガーデンなどへと姿を変えています。
コンクリートに囲まれた都市の中で、買い物の途中に青空の下でくつろげる場所を提供するという役割は、形を変えながら今も受け継がれているのです。
また、大食堂が持っていた「食を楽しむ」「選ぶ楽しさを味わう」という魅力は、現在のレストラン街や地下食品売り場、いわゆる「デパ地下」にも見ることができます。
色鮮やかな惣菜や弁当、和菓子、洋菓子、世界各地の食品が並ぶデパ地下を歩きながら、「どれにしよう」と迷う時間そのものを楽しむ。そのワクワク感には、かつて大食堂の入り口で食品サンプルを眺めていた子どもたちの高揚感と、どこか通じるものがあります。
屋上遊園地と大食堂が姿を消していった背景には、単純な百貨店の衰退だけではなく、社会や暮らし、人々の好みの変化がありました。そして百貨店もまた、その変化に合わせて姿を変えてきました。
昭和のあの時代、おめかしをして家族で出かけ、デパートの屋上で風に吹かれ、食堂でごちそうを食べる。それは、多くの家庭にとって普段とは少し違う「ハレの日」の体験でした。
時代がどれほどデジタル化し、買い物が便利になっても、人々が「日常の中にある、少し特別な時間」を求める気持ちは変わらないのかもしれません。
かつて百貨店の屋上と大食堂が灯したエンターテインメントの精神は、姿を変えながら、今も私たちの街のどこかに息づいています。
担当
田川伸一
随筆家
随筆家。「文化史」「比較文化」など文化を通して現代社会にアプローチし、執筆活動を行う。美術に関するエッセイなどを更新中。

