マイセンフィギュリンの発展 磁器美の頂点を築いた二人の天才・ヘロルトとケンドラーの宿命

ブランド食器買取 2026.09.11

マイセンフィギュリン

18世紀初頭、ヨーロッパの磁器史において画期的な出来事が起こりました。
東洋の白い磁器に深い憧憬を抱いていたザクセン選帝侯・アウグスト強王の命により、錬金術師ヨハン・フリードリヒ・ベットガーが試行錯誤の末、1709年にヨーロッパ初となる硬質磁器の製造に成功したのです。その翌年(1710年)、製法の秘法漏洩を防ぐため、エルベ川沿いの高台にあるアルブレヒツブルク城へと工房が移されました。これが、名窯マイセンの誕生です。

マイセンの歴史において最も革新的であった発展の一つが、「マイセンフィギュリン(磁器小人形・小型彫刻)」の創出と普及です。
それまでヨーロッパにおいて彫刻といえば、石や金属を素材とすることが主流でした。しかしマイセンは、磁器という可塑性と独特の光沢を持つ素材を用いた「陶器彫刻」という全く新しい芸術分野を開拓しました。
これは単なる卓上装飾や置物の枠を超え、洋食器および磁器芸術の概念そのものを刷新しました。

この革命的なフィギュリンの誕生とマイセンの繁栄を支えたのが、二人の不世出の天才――天才絵付師ヨハン・グレゴリウス・ヘロルトと、天才造形師ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーでした。

天才絵付師・ヘロルト

1720年、ウィーン窯からマイセンへと移籍してきたのが、若干24歳の天才絵付師ヨハン・グレゴリウス・ヘロルトです。
ヘロルトは優れた絵付師であると同時に、極めて優秀な化学者でもありました。彼は金属酸化物を主成分とする無数の顔料を調合して磁器用絵具を完成させ、虹の七色を含む多色使いの技術をマイセンにもたらしました。
ヘロルトが書き残したレシピは、今日のマイセンの絵具調合においても基礎として受け継がれています。

ヘロルトは東洋磁器の模倣を得意とし、日本の柿右衛門写しをはじめ、「黄獅子」や「赤い竜」といった名品を手掛けました。さらに、中国と西洋の感性を融合させた独自の「シノワズリ(中国趣味)」の世界観を構築し、ヨーロッパの王侯貴族を大いに魅了しました。

一方で、ヘロルトには強い野心家としての側面が存在したと伝えられています。
ベットガーの成し遂げた素地開発を引き継ぐ形で絵具と色彩技術を完全なものとし、磁器製作におけるデザインの主導権と権勢を強く握ろうとしました。彼は自身の地位と権威を守るため、工房内で絶大な影響力を振るい、後述するように他者の成果を阻害してでも自らの立場を主張する執念を見せました。

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天才造形師・ケンドラー

ヘロルトの絵付けによってマイセンが隆盛を誇る中、1731年に宮廷彫刻家であったヨハン・ヨアヒム・ケンドラーが王の指示によりマイセン製作所に加わりました。
1733年には主任モデラー(造形デザイナー)に就任し、マイセンに「造形」という新たな息吹を吹き込みます。

ケンドラーはアウグスト強王の「日本宮」のために無数の動物彫像や人形を手掛け、ヨーロッパ磁器における造形の基本を確立しました。
彼の代表作として知られるのが、ブリュール伯爵の注文により1735年から約4年の歳月をかけて制作された「スワンのサーヴィス・セット(白鳥のセルヴィス)」です。2,000点を超える磁器で構成されたこの大作は、水や貝殻、海神などをモチーフにした躍動感あふれるロココ様式の傑作であり、ヨーロッパ卓上文化の最高峰と称えられています。

彫刻家出身のケンドラーは、力強く立体的な磁器彫刻を創造し、無地に近い純白の素地そのものが持つ美しさと造形美を追求しました。彼は部下を大切に育てながら自身の芸術を高めていき、まさに「マイセン造形の祖」として真の磁器芸術を確立したのです。

二人の対立と彼らが残した功績

マイセンの二大巨頭となったヘロルトとケンドラーですが、二人の関係はまさに「犬猿の仲」でした。
若きケンドラーの造形が高く評価され、世間の評判が上がるにつれ、主導権を奪われることを恐れたヘロルトは激しい対立姿勢をとるようになります。
ヘロルトはケンドラーの絵付けの余地をなくすような立体的なレリーフ造形に苛立ちを募らせ、ケンドラーの仕事をたびたび妨害しようと試みました。

両者の対立を象徴するのが、大磁器像の彩色をめぐる争いです。
大きな動物像などの焼成時、素地に傷やひび割れが生じることがありました。ケンドラーは造形の力強さが欠点を補うと考え、雪花石膏のように純白のまま作品を残したいと望んでいました。しかし、ヘロルトはケンドラーの意図を知りながら、欠点を隠すという名目で絵付師たちに命じ、派手な彩色を施させました。

ケンドラーは作品の写実性や繊細さが損なわれたと激怒しましたが、ヘロルトは委員会の味方を通じて王の支持を取り付けてしまいました。
嫌がらせとも取れるこのヘロルトの行為でしたが、歴史の皮肉な巡り合わせにより、「彫刻=無地」が当たり前だった時代に、カラフルに色絵付けされたフィギュリン(小型彫刻)は市場で絶大な驚きと大ヒットをもって迎えられました。
結果として、この嫌がらせに端を発する彩色は「フィギュリン=カラフル装飾」という現代まで続く世界的なスタンダードを打ち立てることとなったのです。

この事件以降、二人は互いに口も利かないほど徹底的に憎み合い、工場内は二人の派閥に分裂しました。

フランツ・パウル・フィンデニッグ画《マクセンの戦い》1760年頃(ウィーン軍事史博物館所蔵 / Public Domain)

1756年に始まった七年戦争は、マイセン磁器製作所の歴史にも暗い影を落としました。マイセン近郊(ドレスデン南)で起きた「マクセンの戦い」
フランツ・パウル・フィンデニッグ画《マクセンの戦い》1760年頃(ウィーン軍事史博物館所蔵 / Public Domain)

その悲劇的な人生

二人の運命を決定的に分けたのが、1756年に勃発した七年戦争でした。

アウグスト3世からの避難命令に対し、ヘロルトは早々にフランクフルトへ脱出し、多額の俸給を得て優雅な亡命生活を送りました。一方のケンドラーは工場に留まることを固く決意し、プロイセン軍による略奪や破壊から大磁器像の型や作品を守るため、戦争の窮迫した惨禍の中で奮闘しました。

戦後、プロイセンの脅威が去るとヘロルトは快適な亡命生活から戻り、かかった費用を経費として請求した上で再び権力を振るおうとしました。しかし、彼不在の間に命がけで工場を守り抜いたケンドラーが実権を握っており、ヘロルトの復権は叶いませんでした。時代はヘロルトのシノワズリを過去のものとしており、失意のヘロルトは1765年に辞職。秘法や絵具の調合に関するすべての知識を書き残して提出することを義務付けられ、工場を去っていきました。

しかし、ケンドラーにとっても勝利の喜びは長く続きませんでした。ヘロルトという対立相手が去った後、今度は時代の流行そのものが変化したのです。
ケンドラーが得意とした躍動感あふれるロココ様式は「時代遅れ」とみなされるようになり、シンプルで静的な「新古典主義」が市場を席巻し始めました。戦後の業績悪化に伴いパリから若い造形師が招かれると、ケンドラーは第一線から疎外され、自らの作風とは異なる冷ややかで静的なポーズへの変更を要求されるという厳しい屈辱を味わいました。

1775年1月26日、ヘロルトは78歳で他界しました。そしてそのわずか数ヶ月後の同年5月18日、ケンドラーもまた68歳でその生涯を閉じました。

美しき伝統を次代の主へ――マイセンの鑑定・ご相談は「古美術永澤」にお任せください

稀代の天才、ヘロルトとケンドラーが宿命的な対立の中で昇華させたマイセンの造形。300年の時空を超えてなお、フィギュリンや磁器に宿るその気品は「絶対王者」の名にふさわしく、今も世界中の審美眼を惹きつけてやみません。

もし、ご自宅や蔵で静かに眠るフィギュリンやティーセット、あるいは由来を秘めた西洋陶磁がございましたら、ぜひ一度拝見させてください。マイセンの真価は、制作された時代背景や卓越した職人の手仕事、保存の妙によって、その評価が驚くほど奥深く変化するものです。

西洋アンティークの確かな審美眼と豊富な実績を誇る「古美術永澤」の専門スタッフが、一点一点に込められた歴史的価値を紐解き、お客様が大切に守ってこられた名品の真髄を真摯に鑑定させていただきます。

参考文献

  1. ジャネット・グリーソン(著),南條 竹則(翻訳)()『マイセン: 秘法に憑かれた男たち』集英社
  2. 橋田 正信(著), 田中 学而(写真)()『マイセン磁器: 時を超える美』平凡社
  3. 南川 三治郎()『欧州陶磁紀行―マイセン|ウェッジウッド|セーヴル』世界文化社
  4. 加納 亜美子,玄馬 絵美子()『あたらしい洋食器の教科書 美術様式と世界史から楽しくわかる陶磁器の世界』翔泳社

担当

コラム編集室 AYA

サイトコラム編集者

西洋美術が好きだけど、最近東洋美術も面白く感じてきた。学芸員資格を持っている。作家コラムを中心に更新中。