“残虐”を芸術に高めた江戸の“パンク” 天才絵師・月岡芳年の波乱の人生

浮世絵買取 2026.05.29

生まれは銀座の生粋の江戸っ子

マルチに活躍した幕末・明治期の天才画家

芳年の役者絵。「当勢勇の朝顔」

芳年の役者絵。「当勢勇の朝顔」

 

天保10年、西暦だと1839年ですから187年前に生まれた月岡芳年(つきおかよしとし)は日本の浮世絵の世界の“異端児”であり、“改革者”でもあります。
画号は、一魁斎芳年(いっかいさい よしとし)、魁斎(かいさい)、玉桜楼(ぎょくおうろう)、咀華亭(そかてい)、子英(しえい)、大蘇芳年(たいそ よしとし)と多岐にわたります。
幕末から明治にかけた激動の時代、最前線で浮世の移り変わりを見つめ“最期の浮世絵師”とも呼ばれた月岡は、吉岡米次郎として武蔵国豊島郡新橋南大坂町、現在の東京都中央区銀座八丁目の商家に生まれました。嘉永3年(1850年)に12歳で歌川国芳に入門したとされています。嘉永6年(1853年)、15歳で『画本実語教童子教余師』に吉岡芳年名義で武者絵を挿絵として描いたのが、今でいうデビューとなります。
若い頃は狂画(略画体で、戯画や漫画の類。鳥羽絵ともいう)や玩具絵(子供が読む絵本的な錦絵。手遊び絵とも呼ばれた)などを描いていましたが、徐々に役者絵を描くようになります。

 

戦場でスケッチして腕を磨く

役者絵から武者絵、稗史絵とマルチに活躍

 

芳年の役者絵。「当勢勇の朝顔」3枚続のうちの1枚

芳年の役者絵。「当勢勇の朝顔」3枚続のうちの1枚

役者絵は歌舞伎役者を描いたもので、今でいうなら“ブロマイド”のようなもの。元禄時代には鳥居清元及び、その次男鳥居清信等の鳥居派が数多く手掛け、絵看板なども描くなど手広くやっていたようです。明和時代には似顔絵の要素もある錦絵となり、寛政時代になると歌川派が役者絵を手掛けるようになります。

芳年は役者絵の後は文久3年(1863年)から元治にかけて武者絵(歴史や伝説に登場する英雄や豪傑、戦場を描くもの)や稗史絵(歴史絵ともいう。伝説や物語、実際の事件などを題材とした物語絵)を手掛けるようになっていきます。幕末真っ盛り、明治維新の大混乱の最中に同時代を生きた芳年は、斬首された生首の絵や、戊辰戦争の時は戦場を訪れ兵士の屍の絵も描いています。

 

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歌舞伎の残虐シーンで人気絵師に

一気に人気絵師に駆け上がり“血まみれ”が加速

「鬼若丸」を描いた1枚。鬼若丸は源義経の相棒、武蔵坊弁慶の幼時の名。

「鬼若丸」を描いた1枚。鬼若丸は源義経の相棒、武蔵坊弁慶の幼時の名。

『豪傑水滸伝』の一部。梁山泊第三十位の「浪裡白跳張順」が描かれている。

『豪傑水滸伝』の一部。梁山泊第三十位の「浪裡白跳張順」が描かれている。

 

慶応元年(1865年)には大量の読出一枚物を刊行して人気絵師となっています。「江戸歳盛記」の浮世絵師人気ランキングの10位に入るほどでした。同年に祖父の弟である月岡家・月岡雪斎の養子に入り、月岡姓となります。慶応2年から3年にかけて兄弟子の落合芳幾と競作で『英名二十八衆句』を手掛けます。歌舞伎の残酷シーンを描いたもので、“血まみれ芳年”の代表作の一つとなりました。血しぶきを表現するときに、染料に膠を混ぜて光らすなどの工夫もされており、“無惨絵”として非常に人気がありました。当時は芝居小屋などでも血みどろの演出が好まれており、物騒な時代を反映しているともいえます。

明治に入ると明治元年(1868年)に彰義隊と官軍の戦いを現地取材して描いた『魁題百撰相』を発表。明治2年(1869年)頃までに戯作者の仮名垣魯文と組んで『東錦浮世稿談』も手掛けます。当時の江戸で流行していた「講談(講釈)」の内容を題材に武将や侠客の活躍を躍動感あふれる筆致で描いたものでした。現代から見れば過激な“英雄譚”のようなもので、ハリウッド映画のマーベル・ユニバースと根本は同じものを感じさせます。超自然的な戦いを華麗な色使いや独特な画角で描いており、動いているものをストップモーション的に止まって見えるように描く技法などは現代の漫画に通じるものを感じます。

 

時代を先どった“戦記物”や“英雄譚”

本人こそが名キャラクター?

しかし、明治3年(1870年)頃から神経衰弱になり、作品数が減っていきます。1873年(明治6年)に号を大蘇芳年に変えて、画風も変化していきます。1874年(明治7年)、6枚つながりの錦絵『桜田門外於井伊大老襲撃』を発表しています。実際に現場を見た経験から描いたともされており、そのエピソードが現代の漫画作品で使われています。講談社の週刊モーニングで連載されている漫画『だんドーン』第4巻では、桜田門外の変の井伊直弼襲撃を目撃、素描(スケッチ)する絵師として登場。細面で長髪の美青年として描かれています。当時、これらの大事件のときは多くの絵師が現地で写生したりしていたそうです。それらの絵は瓦版に掲載され、飛ぶように売れたと伝えられています。

同漫画では「10日に1回引退宣言する」絵師として描写されている芳年ですが、これは後年の神経衰弱状態を誇張しているものでしょう。すでに本人がキャラクターとして確立されてしまっているのも面白いものです。芳年が存命だったら喜びそうです。

 

スクープ連発の錦絵新聞時代

写真週刊誌の先駆け、エログロ何でもあり

1875年(明治8年)、『郵便報知新聞錦絵』を開始、これぞまさに現代の写真週刊誌に近い、実際の事件を錦絵に仕立てたものでした。非常に人気が高く、所蔵している千葉市美術館が編集した大型本『文明開化の錦絵新聞: 東京日々新聞・郵便報知新聞全作品』は今でも入手することが出来ます。カラー印刷の復刻版なども大量に出回っており、古書店などで見かけることもあります。小さな画像で見るよりも、やはり大きな紙で見たほうが、圧倒的な迫力を感じることができるでしょう。1877年(明治10年)に西南戦争が始まると、戦場を描いた錦絵が飛ぶように売れました。芳年は想像で描いた戦場を多数描いています。

 

血まみれじゃなくても発禁

綺麗な美人画が発禁の謎

1878年(明治11年)には宮中の侍女を七曜(太陽と月、水星、火星、木星、土星の五惑星を指す古代中国の天文学、占術)に見立てて描いた『美立七曜星』が人気となりましたが、明治政府が不敬であると判断、発禁を食らうことになります。描かれた美女たちの着物には空摺(エンボス加工)が施され、輸入顔料のアニリンによる強烈な“赤”が際立つ純粋な美人画……、同じ赤でも芳年がこれまでに描いてきた“血まみれ”の絵ではない、それでも発禁というのが芳年らしいエピソードです。

1879年(明治12年)頃からは『絵入自由新聞』(自由党が刊行した日刊の党機関紙のひとつ)に月給40円の高給で入社しており、サラリーマン絵師でもありました。しかし、同じく自由党の機関紙でありながらライバル紙だった『自由燈』(後の東京朝日新聞。現在の朝日新聞東京本社版の前身)にも挿絵を書いたことでトラブルを引き起こします。現代の副業禁止規定に違反したようなものです。同時期には『読売新聞』にも挿絵を描いていました。芳年本人はフリーの気持ちだったのかもしれません。

 

遊女・幻太夫との秘密の関係

芳年と関係した美しき遊女・幻太夫

1883年(明治16年)、『根津花やしき大松楼』で根津遊廓にあった大松楼(料亭兼遊郭)の座敷や庭園を舞台にして女性の美しさを描いています。このとき、絵にも登場する遊女・幻太夫と関係を持っていたことが知られています。芳年は幻太夫のために額画を描いており、成田山新勝寺には現物が複数現存しています。幻太夫は様々な文献などでも芳年との関係が描かれています。小林清親や豊原国周、三代歌川広重なども浮世絵に描いている女性です。その生涯は杉本章子の小説『妖花』(文春文庫)に詳しいので、興味のある方は読んでみると当時の事情を知ることができるかもしれません。

1885年(明治18年)には代表作とされる妊婦の足を縛って逆さまに吊り下げ、足元で老婆が刃物を研いでいる強烈な光景で有名な掛物絵(縦向きの大判錦絵を縦方向に2枚つないだ大作)、『奥州安達が原ひとつ家の図』などを発表。東京の様々な人気番付だった『東京流行細見記』明治18年版「浮世屋絵工部」で筆頭に選ばれます。当時の東京府で繁盛した商店や人気の芸人、絵師などをランキングしたもので、まさに人気絶頂の時期です。この頃は門弟も80人を越えたともされています。

 

最期は医者に見放され…53歳での死

その死と遺作、波乱万丈の生涯

『月百姿』の1枚。『史家村月夜 九紋竜』

『月百姿』の1枚。『史家村月夜 九紋竜』

その後も活躍を続け、1888年(明治21年)頃には門弟も200人を超えて様々な作品を世に出します。しかし1891年(明治24年)頃から長年の飲酒で体を悪くし、目も病んで脚気にもなります。翌年には病状が悪化し、巣鴨病院に入院。転院したりするものの、6月9日、東京市本所区藤代町(現・東京都墨田区両国)で脳出血のために死亡しました。享年54、満53歳でした。

芳年は“月岡”という名からか月に関する作品も多く残されています。数え47歳から死没にかけて100点の連作として発表した『月百姿』(つきのひゃくし、つきひゃくし)は死の直後に発売されています。最後の大作であり代表作のひとつでもあります。武者絵や歴史絵、動物絵など内容も多彩でまさに集大成。血まみれはないのですが、洗練された技法を堪能できます。

芳年の墓は新宿区新宿の専福寺にあります。大江戸線の東新宿駅から徒歩10分ほどです。興味のある方は訪れて、幕末から明治の時代に思いを馳せるのもいいのではないでしょうか。残酷で、血まみれで、だからこそ美しい。刹那的な美だけでなく、朽ち果てていく美しさや人間の業を描き続けた月岡芳年。“江戸のパンク”とも呼ばれ、アナーキストでもありアーティスト、その生涯はまさに波乱万丈です。

担当

宮司泰輔

サイトコラム編集者

美術品・骨董品について、初めて勉強する方にも分かりやすいコラムを執筆中です。